『エリザベート』(2016 宙組)を見て 

25日に花組の博多公演『あかねさす紫の花』『Sante!』をライブビューイングで見にいきました。生の舞台を映画館で見るのも悪くないけど、レビューの時のミラーボールの光と周囲の拍手の迫力と一体感は劇場ならではの特典だと感じました。
『あかねさす~』中大兄皇子大海人皇子の兄弟の確執の物語で、その中で鏡大王(額田大王の姉で中大兄の前妻)藤原鎌足に言う台詞がある。

(鏡大王)
ーあなたの話を聞いていると、妻は皇子の臣下なのですか?そのように聞こえます。
(鎌足)
忠誠の話をしているのです。大和の朝廷のためなのです。
(鏡大王)
ーならば臣下の妻になればよかった。

中大兄皇子は弟の妻である額田大王を娶ろうとする。彼には額田の姉である鏡大王がすでに妻としているのにだ。
上述はその諍いを、兄弟の政治的な反目と弱味とされないために腹心である鎌足が収めようとする場面だ。いたたまれずに都を出た鏡大王を、鎌足が迎えに来たときに先程のやりとりがある。
その結末にいたる悲劇は、歴史に明らかだけれども、そのあと鏡大王は本当に鎌足の妻としてむかえられるようになる。

この場面を、ぼくは『エリザベート』と比べて見ていた。
実は先日友人と『エリザベート』を見る機会があった。宙組の2016年版のBDを友人のお姉さんからお借りして鑑賞会の運びとなったのだ。

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エリザベート』は1800年代後半のオーストリアが舞台だ。劇そのものは1990年代に作られてヨーロッパで大流行し、翻訳されて宝塚では定番の名作の地位を築いている。すでにもう9回も上演されていて、年末には10回目の上演が予定されている。

当時のトップの務めるトート役は朝夏まなとさん。トートは『死』の化身であるとされている。エリザベート役は実咲凜音さん。残念ながらお二人ともすでに退団なさっている。。。

あらすじ
事故によって瀕死となり黄泉の国に落ちた主人公エリザベートと、彼女に一目惚れしてその命を救い地上に帰してやることにする黄泉の帝王トートの物語。
彼女の命を奪えば永遠に自分のものとなるが、トートが欲したのは生きている愛、彼女の方から死を愛するという得難いものだった。
そして命を取り留めたエリザベートを、時の皇帝フランツ・ヨーゼフが見初めたことを機に物語は始まる。自由奔放なエリザベートが王宮に入ることで長い苦難が待ち受ける。彼女は王妃になるが、王家のための自己犠牲の大きさについに絶望し、トートから死の誘惑を受ける。
だが彼女はそれを退ける。そして自らの命を誰にも委ねないという強い決意のもとで、今まで犠牲にしていた「私」を取り戻そうとする。彼女は王政という巨大なしがらみと古いしきたりの中で、自分だけを頼りに戦い抜くことを誓うのだった。


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結論からいうと、『エリザベート』は素晴らしい舞台だった。
見ていていくつもの感動が涌き、それぞれの登場人物たちに愛着が生まれた。
だが同時に、とても難しい物語だとも感じた。
その原因は大きく3つある。
①皇帝フランツ・ヨーゼフの心情
②「死」の化身であるトートの決断
エリザベートの最後の歌の意味
この3つをどう捉えるかで、それぞれの姿と話の意味が変わってしまう。感情やストーリーはかんたんに説明などできないし、矛盾があって当たり前だけど、舞台を見て考えているととても楽しい。
この3人の人物への感想と考察を通して、物語をつらぬく一本の背骨のようなものを掴みたいと思う。

次回につづく

②ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年) 

 ご存知名作、ディアハンター。久しぶりに見返してしまったので。
ロバート・デニーロ主演。クリストファー・ウォーケン助演。3時間の大長編です。

ベトナム戦争と帰還兵を描いた映画だといわれているが、いま見てもまったく古びてはいない。

映画の前半は、退屈な田舎街の情景が続く。だが陰のある日常だ。戦争を前にして若いカップルが結婚式をあげていく。漫然と見ていては眠くなってくる。漫然と見ていてはさまざまな示唆を見逃すことになる。静かなシーンを見返したくなるのは優れた映画のひとつの特徴だと思う。
中盤は一転して別の映画のようだ。目の前が血まみれのベトナムの戦場にかわる。激しい戦闘と無惨な拷問、息詰まる逃亡シーン。こんな映画の構造には明らかに意味がある。対比し、思い出させる以上の効果がある。あまりにも変わり果てたものを見せ付けられるなかで、デニーロ演じるマイケルだけが頼りに思えるはずだ。
だが後半は、戦争が終わり街に帰還した男たちを描いていた。
すでにマイケルは言葉をもたない。戦争を語る言葉も持たない。彼は戦争の中に自分の一部を置き去りにしてきてしまったからだ。
その彼が弟にかけようとした言葉はなんだったのか?

それをぜひ映画の中で探してみてほしい。

 またこの作品は、ゴッドファーザーにフレド役で出ていた、ジョン・カザールの数少ない出演作でもある。

①ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年) 

1970年代、ベトナムハノイ米国との戦争の傷跡と混乱が極まる街の無法が、命がけのロシアンルーレットを見世物にする賭博場で臨界点を迎えていた。

『時間がないんだ』
テーブル越しにマイケルが語りかけた。ここから脱出するために目の前の男を迎えにきたのだ。
周囲では命のやりとりに興奮した多くの観衆が野次を飛ばしている。テーブルのそばで立会人が口上を唱えて、観衆を煽りはじめた。立会人は観衆に見せびらかすように大袈裟な身振りで弾丸を込めていく。
拳銃がテーブルに置かれた。
『脱出するんだ、聞いてくれ』
彼――ニッキーはその言葉が届いていないかのように、拳銃をためらわずに自らのこめかみに当てた。
『やめるんだ』
静止もむなしく、ニッキーは平然と引き金をひいた。
かちん、と乾いた音がした。
死線を越えたニッキーの反応は、ただ瞬きをしただけだった。
『くそっ、なぜだ』
観衆は沸いた。賭場は熱狂に満ちている。マイケルは焦っていた。

ニッキーの瞳がこちらを見つめていた。
そこには何の感情も読みとれなかった。
立会人が号令をかけて観衆を黙らせる。
恭しく大袈裟な手つきで、再び拳銃に弾丸を込めた。
薬室は回転しながら銃身に納まり、立会人の手の内で弾がどこに込められたのか見えなくされた。
再び、拳銃がテーブルに置かれた。
ニッキーが拳銃を見ていた。
マイケルを見るときとは違って執着心を露にした険しい目だった。
『これがお前の望みか?これが?』
マイケルは拳銃を握りしめた。
ニッキーは、彼の弟は、引き金を引く瞬間にしか生きていないのだ。生き残ることなどまるで考えていない。
引き金を引く一瞬を得るために、マイケルから銃を奪ってでも自分のこめかみに突きつけかねない。相手が自分の兄だともわかっていないのだ。
ニッキーの魂は奪われてしまった。戦争によって。この命を投げ打つギャンブルによって。
その怒りと哀しみがマイケルの胸に渦巻いた。あまりに不憫だった。
マイケルは銃を自分の頭に突きつけた。
その様子を見たニッキーが急かすように顎をふった。はやくやれ、と。
『・・・愛してるぞ』
絞り出した声は震えていた。
こうしなければ語りかけられない。言葉が届いているのかも分からない。それでも、ニッキーを元に戻してやらなければならない。一人でこんな所に置き去りにしておけない。あの時のように、弟をまた見捨てることなど出来なかった。
指に力をこめる。たまらずに目をつぶる。

かちん、と乾いた音がした。
観衆が沸いた。
息を吐いた。 汗が噴き出していた。周りの騒がしさなどどうでもよかった。
考えなければ。
ニッキーに届く言葉を。
立会人が三度、静寂をもたらした。
銃に弾を込めなおす。
このわずかな静寂の中で。弟は引き金を引く瞬間だけを欲している。ニッキーはそれを求めている。そこに何かが顔を出す。その一瞬に賭けて、マイケルは弟に届く言葉を、語りかけなければならなかった。

②Happy! (2018年 Netflix)

ニックとハッピーは、ブルーのようなスラム街を体現する悪徳との対決をしなければならない。一人では立ち向かえないそれに、二人で立ち向かうための試練を超えていくのが5話と6話のラストシーンだ。その場面を見ると、よごれている心でも清らかに燃えあがれるような気がしてくるのだ。

あるいはこの物語はバディものというよりは寄生ものなのかもしれない。古くはバンパイアハンターD寄生獣幽霊や妖怪を身に宿して力を合わせていくさまざまなストーリーを思い出すからだ。
そうするとニックは何かにとりつかれているということになる。
マルドゥック・シリーズでは、ウフコックというしゃべるネズミが退役軍人ボイルドの失われた良心そのものだったように。ボイルドは虚無にとりつかれていたが、ウフコックとはいいコンビだった。ニックはどうか?

『Happy!』 ――これは幸福を求める一角獣にとりつかれた、死にかけた男の物語である。
誰の、何の幸福なのか?と問うならば、それはニック自身の幸福ではないといえる。
彼は他者を破壊することが得意な自分を知悉していて、暴力の中に身をおいている時の方が日常生活よりも生き生きとしている。だから自分のために幸福を築き上げようとは望みもしていない。
彼が追っているその幸福は、誘拐されてしまった子供の本来得るはずだったものなのだ。
子供の幸福を求めることが、自分自身を放棄して血まみれの道で暴れ狂っていた男の責務だったとすれば。
最後のシーンでそれが果たせてよかったのかもしれない。

ぼくはこのドラマのエンディングを見ながら『インターステラーを思い出していた。
ぼくはニックが滑稽で痛々しくて狂っているようにみえると言った。でもその姿は、それほどぼくらの生活と違いはないのかもしれない。そこが外宇宙でもスラム街でも、日本の小さな街の中でも。
それは紛れもなく自分ではない他者のためにーー子どものために奔走する、父親の姿に見えたからだ。

①Happy! (2018年 Netflix)

よごれた大人が童心にかえるには、アル中になるか死にかけるしかない。
悔い改めればなんとかなるというわけではなく、そうするとイマジナリーフレンド(Imaginary friend)ーー「if」が見えるようになるということだ。

『Happy! 』はおなじみNetflixオリジナルのドラマシリーズで、シーズンが公開されると全話通して見ることができる。むかしの地上波のドラマのように続きが気になって来週まで待ちきれない、ってことはなくなったけれど代わりにぼくらの睡眠時間がどんどんなくなっていく。


このドラマは新鮮なバディ(相棒)ものだ。
ニックとハッピーのコンビが子どもの誘拐事件を追っていくストーリーになっている。
ただし主人公の一人が、想像上の友達ーー幼い子どもが作り上げた「if」であるハッピーは、喋る小さな青いユニコーンだ。すぐにおどけるお調子者だが自分を生み出した少女(誘拐の被害者)を救出するために、理想的な相手だったニックに必死で取り憑いた。「if」はニック以外の人間には声も聞こえず姿も見えない存在だ。
そのニックは元警官で、いまはアル中で殺し屋をしている。野蛮で暴力的だが、卑しい人間ではない。金で悪人を殺しても自分が生き延びることに関心がないかのように、酒を浴び続けてぼろぼろの体と心臓を痛めつけている。「if」であるハッピーに取り憑かれるまでは、コカインとギャンブルが好物で人を殴ることが得意なーー早く死にたいと願っているどこにでもいる中年男だった。

物語のなかでニックは「if」を見て、その声に耳を傾け、「if」と話をして行動するようになる。
「if」の助言に従って東に行ってはマフィアを半殺しにし、西に行っては敵に捕まって拷問される。行く先々でトラブルを起こし、ものをぶち壊し、事態が複雑になり、流血と傷が増えていく。
他人にはその「if」はまったく見えないから、その様は滑稽で痛々しくて狂っているようにみえる。
スプラッタでコメディなタッチのシーンも多いし、風刺的でシュールな笑いも随所にある。たとえば舞台であるスラム街のマフィアのボスに『ブルー』という個性的なキャラクターがいる。その『ブルー』の妹には、リアリティー番組のTVクルー達が密着していて毎週その番組が彼らの世界のテレビで放送されているのだ。
その『ブルー』の自身を取り巻く状況への絶望と達観ぶりが、フレッシュな言葉の暴力描写となって視聴者のナナメ上をいく。それが陳腐にならず、共感も出来るけれど、好きにはなれないキャラクターを作り上げていて『ブルー』は矛盾と恐怖を感じられるあたらしい悪役になっている。


『これは私が7日もかけて作った世界ではない』

第3話の『ブルー』のセリフは果てしない。そしてこの男が街の悪徳の体現だと視聴者は気付くのだ。

②トーマの心臓

傷つけられた肉体と魂が、愛することも愛されることも諦めていた。

そんなユリスモールの中でトーマの言葉がこだまする。

『それでは死んだまま生きるようではないか。さみしすぎるではないか』

自分の苦痛の扱いに他人が抗議することほど鼻白むことはない。

そんな抗議は心に届かない。言葉では心に届かない。

『抗議ではないよ。きみの死んだ心を生き返らせたくて、ぼくの心臓を捧げることをいとわないという宣言だ』

馬鹿馬鹿しいと、取り合わなかった。徹底的にユリスモールは彼を無視した。送られた手紙はすべて読まずに破り捨てた。

だが、宣言して捧げられた心は地に落ちてから舞い上がり、誰にも見えなくなった。
それは事故死だとされた。誰もその真意に気付かなかった。
愛する人の傷が、けっして暴露されたりしないようにトーマもそれを望んだ。

ユリスモールは心を閉ざした。自分の傷だけでなく、トーマの死も心の水面に沈めた。彼の死は自分のせいか?そんな馬鹿なことがあるものか。考えるのはよそう。彼は足を滑らせて橋から落ちたのだ。

そんな中でエーリクが転校してくる。
エーリクはずけずけと、遠慮などなくユリスモールの心に土足で入り込む。事情を知らないからだ。何もかも知らないのにトーマの顔でユリスモールに、彼の死の理由を尋ねてくる。これは何かの罰だろうか。
彼をもう一度殺してやりたくなる。
そんな激しい感情をぶつけてしまう。
エーリクはユリスモールの態度に疑問をいだく。関心をもつ。

反発しながらも心を惹かれていく。そして、そして――。
ある本に挟まれて、見つかることを待っていたトーマのメッセージをエーリクが見つけることになる。

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少年達にさまざまなことが起こる。その出来事はひとりでには起こらない。誰かのそばで、それが起こったことが大切なのだ。
友人の死、家族の死、愛と暴力、エスケープ。

出来事のなかで彼らは少しずつ心を通わせることが出来るかもしれない。少年の日のなかで愛すべき人がそばにいたこと。愛すべき人のそばにいること。
相手を理解したいという思いと相手に理解して欲しいという願いが重なって、自分をとらえて離さない。そしてその願望が相手を追い詰めることになる。あるいは追い詰められなければ答えが出せないこともある。

ユリスモールの告白は彼を解放することが出来ただろうか。告白そのものが答えであるようにぼくには思えた。

誰になにをすべきかなど、トーマに似ても似つかないぼくには、理解するきっかけすら掴めないままでいる。それでも、だからこそ繰り返し読んでしまう物語。傑作です。

①トーマの心臓

トーマの心臓」は、1974年発表の萩尾望都先生の漫画作品です。
舞台はドイツのシュロッターベッツ。
ギムナジウム、寄宿学校で少年達の送る集団生活が描かれる。
主人公は愛する母親を名前で呼ぶように育てられた、奔放な少年であるエーリク。母の再婚により転校してくるところから物語は始まる。
規律に反発する問題児のエーリクは固く心を閉ざした優等生のユリスモールと相部屋になる。
そのユリスモールにはある噂がつきまとっていた。

萩尾先生の数ある代表作のひとつ。
自身のエッセイでは『(トーマの心臓では)愛と死、一瞬と永遠を突き詰めて描こうとした』と語っている。宝塚の「ポーの一族」のおかげでまた読み返したので感想とあらすじの紹介を。

もう一人の主人公であるユリスモールは傷を抱えていて、それをひた隠して生きている。彼は勉学を怠らず後輩の面倒も見て、教師の評判もいい。
だが転校してきたエーリクにだけは憎しみのような激しい感情をぶつけてしまう。
なぜか。
自殺したトーマという下級生に彼がそっくりだからだ。トーマの面影を彼に見て、トーマの言葉をいやでも思いだすからだ。
その言葉はユリスモールの傷を知っていた。
ユリスモールは過去を悔いている。お前はなぜそんなことをした、と自責する。自分の心のなかには表に出せない感情の嵐が渦巻いている。
傷を受け入れてしまった/自ら傷を望んだ/傷に従わされた/そんな自分を、自分だけが知っている。誰にも知られてはいけないその苦しみを、封印して生きると決めていた。
だからもう二度と心を動かされないようにしよう、と決めていた。静かに、平穏に。

そのためにもう誰にも関心を持たず、誰も愛さない。

自分でも、それが傷になるとは思わなかったのだから。