『エリザベート』(2016 宙組)を見て
25日に花組の博多公演『あかねさす紫の花』『Sante!』
『あかねさす~』
(鏡大王)
ーあなたの話を聞いていると、妻は皇子の臣下なのですか?
(鎌足)
忠誠の話をしているのです。大和の朝廷のためなのです。
(鏡大王)
ーならば臣下の妻になればよかった。
中大兄皇子は弟の妻である額田大王を娶ろうとする。
上述はその諍いを、
その結末にいたる悲劇は、歴史に明らかだけれども、
この場面を、ぼくは『エリザベート』と比べて見ていた。
実は先日友人と『エリザベート』を見る機会があった。
::::::::::
『エリザベート』は1800年代後半のオーストリアが舞台だ。
当時のトップの務めるトート役は朝夏まなとさん。トートは『死』
あらすじ
事故によって瀕死となり黄泉の国に落ちた主人公エリザベートと、彼女に一
彼女の命を奪えば永遠に自分のものとなるが、
そして命を取り留めたエリザベートを、時の皇帝フランツ・
だが彼女はそれを退ける。そして自らの命を誰にも委ねないという強い決意のもとで、今まで犠牲にしていた「私」
::::::::::
結論からいうと、『エリザベート』は素晴らしい舞台だった。
見ていていくつもの感動が涌き、
だが同時に、とても難しい物語だとも感じた。
その原因は大きく3つある。
①皇帝フランツ・ヨーゼフの心情
②「死」の化身であるトートの決断
③エリザベートの最後の歌の意味
この3つをどう捉えるかで、
この3人の人物への感想と考察を通して、
次回につづく
②ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年)
ご存知名作、ディアハンター。久しぶりに見返してしまったので。
ロバート・デニーロ主演。クリストファー・ウォーケン助演。3時間の大長編です。
ベトナム戦争と帰還兵を描いた映画だといわれているが、いま見てもまったく古びてはいない。
映画の前半は、退屈な田舎街の情景が続く。だが陰のある日常だ。戦争を前にして若いカップルが結婚式をあげていく。漫然と見ていては眠くなってくる。漫然と見ていてはさまざまな示唆を見逃すことになる。静かなシーンを見返したくなるのは優れた映画のひとつの特徴だと思う。
中盤は一転して別の映画のようだ。目の前が血まみれのベトナムの戦場にかわる。激しい戦闘と無惨な拷問、息詰まる逃亡シーン。こんな映画の構造には明らかに意味がある。対比し、思い出させる以上の効果がある。あまりにも変わり果てたものを見せ付けられるなかで、デニーロ演じるマイケルだけが頼りに思えるはずだ。
だが後半は、戦争が終わり街に帰還した男たちを描いていた。
すでにマイケルは言葉をもたない。戦争を語る言葉も持たない。彼は戦争の中に自分の一部を置き去りにしてきてしまったからだ。
その彼が弟にかけようとした言葉はなんだったのか?
それをぜひ映画の中で探してみてほしい。
①ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年)
1970年代、ベトナム、ハノイ。
『時間がないんだ』
テーブル越しにマイケルが語りかけた。
周囲では命のやりとりに興奮した多くの観衆が野次を飛ばしている。
拳銃がテーブルに置かれた。
『脱出するんだ、聞いてくれ』
彼――ニッキーはその言葉が届いていないかのように、
『やめるんだ』
静止もむなしく、ニッキーは平然と引き金をひいた。
かちん、と乾いた音がした。
死線を越えたニッキーの反応は、ただ瞬きをしただけだった。
『くそっ、なぜだ』
観衆は沸いた。賭場は熱狂に満ちている。マイケルは焦っていた。
ニッキーの瞳がこちらを見つめていた。
そこには何の感情も読みとれなかった。
立会人が号令をかけて観衆を黙らせる。
恭しく大袈裟な手つきで、再び拳銃に弾丸を込めた。
薬室は回転しながら銃身に納まり、
再び、拳銃がテーブルに置かれた。
ニッキーが拳銃を見ていた。
マイケルを見るときとは違って執着心を露にした険しい目だった。
『これがお前の望みか?これが?』
マイケルは拳銃を握りしめた。
ニッキーは、彼の弟は、
引き金を引く一瞬を得るために、
ニッキーの魂は奪われてしまった。戦争によって。
その怒りと哀しみがマイケルの胸に渦巻いた。
マイケルは銃を自分の頭に突きつけた。
その様子を見たニッキーが急かすように顎をふった。はやくやれ、
『・・・愛してるぞ』
絞り出した声は震えていた。
こうしなければ語りかけられない。
指に力をこめる。たまらずに目をつぶる。
かちん、と乾いた音がした。
観衆が沸いた。
息を吐いた。 汗が噴き出していた。周りの騒がしさなどどうでもよかった。
考えなければ。
ニッキーに届く言葉を。
立会人が三度、静寂をもたらした。
銃に弾を込めなおす。
このわずかな静寂の中で。
②Happy! (2018年 Netflix)
ニックとハッピーは、ブルーのようなスラム街を体現する悪徳との対決をしなければならない。一人では立ち向かえないそれに、二人で立ち向かうための試練を超えていくのが5話と6話のラストシーンだ。その場面を見ると、よごれている心でも清らかに燃えあがれるような気がしてくるのだ。
あるいはこの物語はバディものというよりは寄生ものなのかもしれない。古くは
そうするとニックは何かにとりつかれているということになる。
マルドゥック・シリーズでは、
『Happy!』 ――これは幸福を求める一角獣にとりつかれた、死にかけ
誰の、何の幸福なのか?と問うならば、
彼は他者を破壊することが得意な自分を知悉していて、
彼が追っているその幸福は、
子供の幸福を求めることが、
最後のシーンでそれが果たせてよかったのかもしれない。
ぼくはこのドラマのエンディングを見ながら『インターステラー』を思い出していた。
ぼくはニックが滑稽で痛々しくて狂っているようにみえると言った
それは紛れもなく自分ではない他者のためにーー子どものために奔
①Happy! (2018年 Netflix)
よごれた大人が童心にかえるには、
悔い改めればなんとかなるというわけではなく、
『Happy! 』はおなじみNetflixオリジナルのドラマシリーズで、シーズンが公開されると全話通して見ることができる。むかしの地上波のドラマのように
このドラマは新鮮なバディ(相棒)ものだ。
ニックとハッピーのコンビが子どもの誘拐事件を追っていくストー
ただし主人公の一人が、想像上の友達ーー幼い子どもが作り上げた「if」であるハッピーは、喋
そのニックは元警官で、いまはアル中で殺し屋をしている。野蛮で暴力的だが、
物語のなかでニックは「if」を見て、その声に耳を傾け、「
「if」の助言に従って東に行ってはマフィアを半殺しにし、
他人にはその「if」はまったく見えないから、
スプラッタでコメディなタッチのシーンも多いし、
その『ブルー』の自身を取り巻く状況への絶望と達観ぶりが、
『これは私が7日もかけて作った世界ではない』
②トーマの心臓
傷つけられた肉体と魂が、
そんなユリスモールの中でトーマの言葉がこだまする。
『それでは死んだまま生きるようではないか。
自分の苦痛の扱いに他人が抗議することほど鼻白むことはない。
『抗議ではないよ。きみの死んだ心を生き返らせたくて、
馬鹿馬鹿しいと、取り合わなかった。
だが、宣言して捧げられた心は地に落ちてから舞い上がり、
それは事故死だとされた。誰もその真意に気付かなかった。
愛する人の傷が、
ユリスモールは心を閉ざした。自分の傷だけでなく、
そんな中でエーリクが転校してくる。
エーリクはずけずけと、
彼をもう一度殺してやりたくなる。
そんな激しい感情をぶつけてしまう。
エーリクはユリスモールの態度に疑問をいだく。関心をもつ。
ある本に挟まれて、
::::::::::
少年達にさまざまなことが起こる。
友人の死、家族の死、愛と暴力、エスケープ。
相手を理解したいという思いと相手に理解して欲しいという願いが
誰になにをすべきかなど、トーマに似ても似つかないぼくには、
①トーマの心臓
「トーマの心臓」は、1974年発表の萩尾望都先生の漫画作品です。
舞台はドイツのシュロッターベッツ。
ギムナジウム、寄宿学校で少年達の送る集団生活が描かれる。
主人公は愛する母親を名前で呼ぶように育てられた、奔放な少年であるエーリク。
規律に反発する問題児のエーリクは固く心を閉ざした優等生
そのユリスモールにはある噂がつきまとっていた。
萩尾先生の数ある代表作のひとつ。
自身のエッセイでは『(トーマの心臓では)愛と死、
もう一人の主人公であるユリスモールは傷を抱えていて、
だが転校してきたエーリクにだけは憎しみのような激しい感情をぶ
なぜか。
自殺したトーマという下級生に彼がそっくりだからだ。
その言葉はユリスモールの傷を知っていた。
ユリスモールは過去を悔いている。お前はなぜそんなことをした、
傷を受け入れてしまった/自ら傷を望んだ/傷に従わされた/
だからもう二度と心を動かされないようにしよう、と決めていた。静かに、
そのためにもう誰にも関心を持たず、誰も愛さない。
自分でも、