『庄助』というお店

5月末に兄貴といっしょに飲みにいきました。

入り口のすだれをくぐると10人くらいが座れるL字のカウンター席にテーブル1つと座敷が2つある。店内はきれいで広々した年季の入った空間だ。
まず目に入るのが煮物や焼き物の大皿がカウンターの上段にずらりと並べられている光景だ。昔ながらの本格的な居酒屋さんという感じがする。
そして黒板には手書きのメニューが50種類くらい書いてある。
マスターと目が合うと、『いらっしゃい』とカウンターに通してもらった。

お通し
・くずきりと人参のきんぴら
きんぴらのあまじょっぱい汁気がくずきりに吸われていて酒がすすむ。

・こはだ
針しょうがとねぎを巻くようにして、こはだを一口大に切ってある。食べやすくて目に美しくて、なにより味が調和されていてとてもうまい。

・わらびおひたし
会津田島で採ったものだとマスターが教えてくれる。『いい山菜は柔らかさが全然ちがうんだよ』と。マスターのお父さんが福島のご出身なのだ。
『もう季節が終わってきたから、上からとってきたんだよ』
上とは、北の寒いところからという意味だ。たしかに食感がよくてお箸がすすむ。

きゃらぶき
甘みが優しくてほっとする味。
きゃらぶきは筋とりするんですか?』
板前の兄貴が質問すると嬉しそうにマスターは答えてくれる。
『30分くらい煮ると、筋がぬける瞬間があるからそこで火を止める。重曹も筋とりもなしでいいの』
感心しながらうなずいて食べる。うまい。

・やきほや
身が切られて、カラにのって出てくる。
温かくて食べやすくて柔らかくて臭みがない。今まで食べてきたほやの印象が変わる。
きゅうりと酢醤油(酢がメイン)で食べるといいと兄貴のアドバイス。うまみが噛むほどにあふれる。
でもマスターからすると、『ちょっと独特の香りするけどね、焼くとうまいんだよ』
いや、全然いやな匂いしません。すごいっす。

・こまつなごま和え
ごまの香りとつよめの甘み。おつゆに浸かった器の下の方の小松菜は醤油がきいてまた違った味がたのしめる。ちょうどよい箸休め。

・スペアリブ
柔らかくて味が染みてて最高。
兄貴が質問して、忙しいなかマスターが答えてくれる。カウンターも座敷も満席になっていた。
『酒しょうゆみりん、やきとりのたれ、にんにく、しょうが。混ぜて肉をつけこんでおくんだよ。
焼き台でかるく表面を焼いてからオーブンで15分くらい。そうすると柔らかく火がとおる』
味付けも焼き加減も最高。肉の身はぷるぷるの弾力で、骨からこそげて食べるうまさ。

兄貴と焼酎をのむ。小声でこそこそ話す。
『頼んで欲しいものを頼まれると、作る方はうれしいんだよな』
手間がかかってたり、工夫していたり、旬のものだったり。
きっと、板前の兄貴も同じだから分かるのだろう。


マスターが、6月末にお亡くなりになった。もう月曜にお通夜が開かれる。
YAMAHAのヴィンテージのバイクを颯爽とのりこなしていて、小さな頃からひそかに憧れていました。お袋の店にもよく来ていただきました。
会うとかならず、元気かい?まだ横浜に住んでるのかい?とぼくにも話しかけてくれました。
優しくてかっこいい方でした。
作っていただいたもの、食べたものを思い出しています。思い出すことしか出来ません。おいしかったものは忘れられません。忘れません。
ありがとうございました。

②孤狼の血(2018)

これはご都合主義の物語ではない。
大上が限界まで手を尽くしたひとつの思いが、大上を疑う日岡の軌跡を称えるというものだったのだ。
人には、人を能動的に強制させる力はない。
本質としての人を変えることなど出来ない。都合よく操ることなど出来ない。

ただ、こいつはいい刑事になる、という大上の希望のようなものがそこにはあった。
狼の血を継ぐものになると。

日岡が大上を疑っていることなど、大上はよく知っていた。
そのまま日岡の好きにさせていたこと自体が大上の目的と行動に弱味も疚しさもない自信の現れではなかったか。
その期待をうけとめて、日岡は己の不明を恥じる。それは最大の原動力になる。
後悔が後悔のままではいられなくなる。
遺志を継がねばならない。果たさなければならない。
そういうドラマになっている。
それは復讐と流血と惨死をもたらす。
それは避けようがない。
だからこの映画は、冒頭から『ひりだされたもの』にまみれて、ぼくたちはその凄惨さを食わされていることに気付くべきなのだ。
そのメッセージは直截で強烈で親切ですらある。この映画はそういうものを見せますよ、という監督の熱い覚悟が冒頭のヤキ入れのシーンからは匂い立っていた。

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くそ食らえ、という罵倒がある。
ぼくたちは狼の死に様を見ている豚であり、娯楽として供されるそれを食らうだけの存在なのだろうか。監督はけして、そう言いたいのではないだろう。
この映画はたしかに暴力と血にまみれたものを見せるが、その中にも人の輝く一瞬があることを教えてくれる。ろくでもない不条理な現実のなかで暴力に捕らえられ、血に沈み、敗れて無惨に死んだとしても、その輝きだけは残り継がれていく可能性があることを見せてくれる。小説と映画の差異もまさにそこに焦点を当てているのだから。


これこそが暴力というものをエンターテイメントに描く唯一の価値ある意味だとしたのは、『マルドゥック・ヴェロシティ』を描いた冲方丁だった。

昭和の『仁義なき戦い』は、木っ端のように死んでいく若い衆たちをやくざ戦争と現代社会の影の犠牲者として描いていた。だがこの平成最後の年に公開された『孤狼の血』という映画は、死者に犠牲者であることだけを強いてはいない。それが新しい暴力と映画の語り口であるのは、絶望の中にしか真の希望はないと言ったオルテガ・イ・ガセットを思い出させながら爽やかなラストシーンにつながっていく。

ぼくは真夏にもう一度この映画を見たくなった。今度はネクタイをゆるめて見ることにしたい。

 

①孤狼の血(2018)

『凶悪』(2013)の白石監督最新作。
監督お気に入りのピエール瀧さんは今回も元気に右翼を演じておられました。瀧さんは『64』といい『アウトレイジ最終章』といい、愛嬌ありまじめさあり怖さありで、さらに人でなしまで演じてしまうすごい人。たまむすびというラジオ番組のパーソナリティーとして好きだったけど、お芝居もうまくてほんとに面白い。
組長役には石橋蓮二がいるので、『凶悪』で瀧さんとコンビを組んで悪逆非道の限りを尽くしたリリー・フランキー翁は1回休み。ちょっと残念。(『万引き家族』では健在らしい)

舞台は広島死闘編(仁義なき戦い)の呉をモチーフにした呉原という街だ。
大上(役所広司)はマル暴のエースとして日夜やくざと対峙する刑事だ。日岡(松坂桃李)は広島大出のエリートで新人として四課に配属された。

 

まず冒頭のヤキの入れ方が半端ではない。目を背けたくなるほどだが、それは目論見があっての過激さだ。

ぼくは映画を見てから小説を読んだけれども、正解だったかもしれない。
小説を読むほどに、映画も愛おしくなる。
大上と日岡がより強く結び付けられる。
大上が日岡に、亡くした息子に重ねて感じていただろう思いや、四課の刑事である自分の後継として見定めていただろう覚悟も小説では触れられている。それだけで読む価値はあった。
小説を読んで『墨塗り』の意味を知ると、なおさら映画でのそのシーンに胸が熱くなる。そこにある差異がこの映画では重要な意味をもつ。
男たちは狼だった、という大きな意味を。

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大上と日岡が過ごした日々は、驚くほど短い。それでも出会いによって生き方が変わることはあるのだろう。
それは最も側にいて、大上を知ろうとしていたのが日岡自身だったからだ。
人は人をどのように知ろうとするか。
知ろうとする人間に自分をどう見せるか、知らせるか。または知らせないのか。

知っている人間はそれをコントロールすることができる。

だが大上は日岡をコントロールするのではなく、支配して縛るのでもなく、相手に自己の思いを託した。託す方法は、自己が犠牲になったときに初めて明かされる。それは自分を捧げる行為である。

大上の辿った軌跡にはディム=ボイルドの軌跡に重なるものがある。

託された思いに、返せないほど大きな恩義がある時にこそ人は心が動く。

 大上が、真相を求める日岡に真実を暴けるかどうか朱筆を入れる。
最後にはその仕事を讃えて託す。
託された方の胸中はいかばかりか。
託された『それ』を見た日岡は捜査の軌道を大きく変えることになる。

 

 

Death Stranding & The Last of Us PartⅡ [E3 2018] (Trailer)

www.youtube.com

老化の雨を避けながら、装備と重い荷物を背負って運び、果てしなく広大で荒廃した世界を独り歩く。見えない巨獣に追われて息をひそめ、霧に浮かぶ死霊の目をかいくぐって這い進む。常に死と隣り合わせの緊張とともに。

これが小島監督のゲーム、これがデス・ストランディング

たぶん、おそらく、ぼくはこのゲームが好きだ。

 

そして、ラスト・オブ・アス PartⅡ

The Last of Us Part 2 Gameplay Trailer (4K) - E3 2018 - YouTube

あえてサムネイルはのせない。血まみれに注意してほしい。

成長したエリーが前回のトレーラーでは、敵の血の海の中でギターを弾き歌っていた。

「魂が癒されても 正しい道は歩めない 私はまともじゃないから」と。

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今回のトレーラーでは、エリーの甘く柔らかなくちづけの記憶のあいだに、彼女の行ってきた凄惨な殺戮のシーンが流れていく。

それは復讐だ。エリーは大切な何かを失い、それを奪い去った者たちへの復讐に身を焦がしている。どうしちまったんだ、エリー。ジョエル(前作の主人公 cv:山寺宏一)はお前をそんな娘に育てた覚えはないぞ。殺すのはジョエルに任せて、お前は安全に。。と言いかけて考え込んだ。

守ってきた娘のような存在が、「私も仇を討ちたい」と言い出したらどうするのか。そして実際に彼女が、失われたもののために敵を殺すことを止められないとしたらどうすればいいのか。

 

このトレーラーに対して、暴力的過ぎるという批判があるようだけどぼくはそれは的外れだと思う。なぜならいつだって理由をつけて、この種のアクションゲームはプレイヤーの暴力性の発散をさせてきたからだ。それは物語の報酬としても、カタルシスとしてもずっとそうだった。だからこれが初めての暴力的なゲームというわけじゃない。そういう批判は、おそらくエリーが凄惨に人を殺しているから、その様が受け入れられないということなのだ。

裏を返せばジョエルだけが、男だけが、仇を討つために自分を犠牲にして人を殺す『権利』を、ゲーム上ですら独占して持っているわけではない。

エリーが、彼女が、女の子が、破滅に向かってただ復讐のために人を殺し続けることを選ぶとしてもぼくたちにそれをとめる権利があるのだろうか。物語では女性は凄惨な復讐をしてはいけないとでも言うのだろうか?常に守られて救われるヒロインでいなければならないとでも?

 

ぼくたちはいままでゲームに、死に至る自己破壊とヒロイズムに満足しながら復讐する快感を求めてきてしまった。それが、ゲームの中で我が子のように感じてきたキャラクターが、同じようなそれを求める事態に直面してしまった。まるで反抗期の子供と向き合う親の心境のようになってくる。「私はまともじゃないから」というエリーを、どうしてそのまま受け入れられないのだろうか。自分自身を振り返ってみれば、誰かに自分が受け入れてもらえない苦しさがわかるはずなのに。

だとしたらぼくたちは、ゲームを通じてぼくたち自身をその暗い欲望から救い出さなければならないのではないだろうか。自己破壊の快感の誘惑から。その快感を男のキャラクターに独占して投影させるのを当然だと思ういびつな考えから。そして自制するのは暴力性の表現などではなくて、暴力性を付与させる対象を恣意的に選択できると思っている人たちの言葉の軽さのほうではないのか。物語の中でエリーのキスの相手が女性だったことが示すように、「対象の恣意的な選択」など出来はしないのだから。

あのノーティドッグならそんなお話をやりかねない。前作のラスト・オブ・アスの結末を知っていれば、恐ろしさと期待は大きくなる一方だ。

それがどんな物語になるのかはもちろんまだわからないけど、自分自身に大きく深く刺さる物語になるだろうと予感させるトレーラーだった。すこし怖いくらいに。

備忘録 5月下旬から6月上旬

・映画、舞台

孤狼の血

天は紅い河のほとり(宙組

GET OUT (2017)

 

グレイテスト・ショーマン

バーフバリ2

シェイプオブウォーター

 

・訪門

庄助(栃木県宇都宮市

まえだや

のむさん(岡野)

 

・読書

ポーの一族ユニコーン」①(flowers7月号)

孤狼の血(文庫版)

映画を作りながら考えたこと(高畑勲

苦海浄土石牟礼道子

『エリザベート』②トートはなぜエリザベートを殺さなかったのか?

『トートはなぜエリザベートを殺さなかったのか?』

 表題を考えるために、すこし別の話をさせてもらいたい。
ぼくはこのことを考えていたときに小説家の増田俊也氏の記した、木村政彦夫妻の話を思い出していた。それは実在する、戦前から戦後にかけて武道の世界で最強の座を貫きつづけた男とその妻の話だった。
ぼくは木村が妻に発したという『これでいいよね。これでよかったよね』という言葉に涙した。
それは晩年に妻との散歩中にぽつりと出た言葉だった。

最強の武道家だった『鬼の木村』は恥を忍んで生き延びつづけていた。
絶頂期のたった一度の敗北のあと、彼はずっと自身の死を望み、対戦相手に死をもたらすことを望み続けていた。その力は十分に持っていた木村だったが、それを選ばなかった。
裏切りによる不名誉な敗北を雪辱する機会を、木村はずっと探していた。
だがその機会はある事件により永遠に失われたように見えた。
それでも木村は年老いてなお体を鍛えつづけた。異常な鍛練によって肉体の衰えを退け続けていた。
だがあるとき妻にその言葉をなげかけた。『これでよかったよね?』という自分の人生に対する伴侶への言葉は彼の涙とともに発せられたが、それは問いではなかったのだろう。

彼は苦しんでいた。たった一度の敗北を許せずに、そこから自由になれなかった。再戦が叶わなかったからである。だから自分の強さを証明するためには、愛する弟子たちを最強とするべく鍛えあげる人生を選び続けるしかなかった。彼の子供同然である弟子たちは柔道で日本一を取り、日の目を見ない地下格闘技でも勝ち続けた。北京オリンピックで日本人唯一の柔道金メダリストの選手もまた、彼の孫弟子である。
だがそうやって、彼は自由になれただろうか。
彼は強さにこだわることが、自分自身の強さを証明し続けることが、自分を保って生きのびることだと知っていた。
あの敗北後に刺客や戦いによって彼が殺されていたなら、それは彼が解放されるということと同義だったように思う。
けれども、本気の彼に勝てる人間など当時の地上に誰一人としていなかった。それが誇張ではなく間違いない事実であるということをぼくらは増田氏の本によって知ることが出来ている。これは木村政彦の名誉を回復し、彼の無念を解放し、彼を自由にしたということ以外の何物でもないはずだ。

増田氏の語る、入念な調査と執念の取材はそれを確かなものにして後世に伝える物語になった。それを成し遂げられたのは、木村政彦という偉大な存在への愛ゆえだったとしか言いようがない
夫妻のエピソードは『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのかという本に載っている。その表題の意は、その書を読めばわかるのだ

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そして本題に戻る。エリザベートの死後、彼女の自由への希求と、名誉の回復と束縛からの解放は、木村政彦と同じようになされようとしたのではないだろうか?
トートの手によって。つまりは『死』というものの語る物語によって。
エリザベート』とは、死の手先となった暗殺犯ルキーニによる陳述と死者たちの証言によって構成される黄泉の世界の公判による物語だ。そのことに注目して見れば、これが彼女の『死』の真実を究明するための物語であることがわかる。

『トートがなぜエリザベートを殺さなかったのか』とぼくは書いた。
トートは彼女を殺したのか?
いや、殺さなかった。
死によって彼女を解放した。
この二つの言葉はなにが違うのか。

自分の死による価値を誰かに奪われることを「殺される」というのならば。
自分の死による価値を、自分自身が得ることが出来たならそれは自分の人生を「生きた」と言えるのではないだろうか。
彼女は彼女自身の死を受け入れていたように見えた。それは最後にエリザベートが歌った言葉で明らかだ。だが、なぜ「死」を受け入れられたのだろうか。あれほど自分の命を誰にも委ねない、と強く誓っていた彼女だったのに。そこに疑問が残るのだ。

トートは彼女に死をもたらしたが、少なくとも彼女の命である自由を奪うことはしなかった。
彼女の存在を支配するのではなく、生きた彼女の愛を欲したのだ。
これはとても難しいことだ。なぜこんな難題をこの物語は抱えたのだろうか。
はたして生きたまま、逃避や諦めからではなく、人間が死を愛して受け入れることなど出来るのだろうか?

ぼくに分かるのは、この難題に挑んだ物語の作者ミヒャエル・クンツェは、歴史において理不尽に見えるエリザベートの不慮の死をそのように語り直そうとしたのだということだ。
そのためには、彼女は『死』に愛されて、『死』をただしく愛さねば、それを乗り越えられなかったとされたのだ。悲運の死、狂人の凶行、アナーキストテロリズム、そういった言葉では彼女の死を語らないと作者は決めたからこそこの物語がいまここに在るのだ。
そうして当時の彼女にたいする、奇人だとか変人だとか自分勝手な亡国の浪費家だとかいう不名誉なレッテルを変えようとしたのだ。
トートという『死』の手を借りて、エリザベートの人生を語り直させる試みによって。

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この『エリザベートという物語は苦難のなかで自由を欲する人間の生きざまを見せるという価値をもたらしてくれる。
その価値は現代でも清らかで誇り高い勇気を見る人たちに与え続けてくれるだろう。そしてぼくらはその試みが見事に成功していることに感動する。

だがそれは本当に、ぼくらに感動を与えてくれるための物語の都合などではなかったのだろうか?
彼女は自分の死によって、本当に束縛から放たれて自由になれたのだろうか?

次回につづく

『エリザベート』①ヨーゼフのロンド

 皇帝フランツ・ヨーゼフは、母のゾフィーが妻のエリザベートを王宮に適応させようと教育していることを知っていた。それがエリザベートの自由を強く束縛するものだということも。
彼は結婚当初はそれが必要だと思っていたが、エリザベートの望みは違った。我が子を取り上げられ、ゾフィーに奪われたと感じていたエリザベートは自由を勝ち得るために行動する。王妃である自分の力が皇帝にとって必要になったとき、妻か母か、どちらの側に立つかの選択を皇帝である夫に突き付けたのだ。
フランツ・ヨーゼフとしての答えは妻を選んだ。彼はエリザベートを失いたくなかったのだ。だが、皇帝としての役目はまた違っていた。
そのふたつの解離が彼をオーストリア皇帝としての責務を果たさせつつ、自由を求めて行動する妻のエリザベートを追認する、という夫婦の形をつくっていくことになった。

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舞台の最後にレビューを歌うヨーゼフもまた、トートのようにエリザベートに恋をしていた。
そのことが彼を見ているとわかる。
トートが歌い続けた「愛と死の輪舞」。エリザベートがトートと共に湖を渡ってしまったすぐあとに、ヨーゼフがその歌を歌うことで、鏡合わせのものを見るかのように彼の心の中の様子がよくわかるのだ。

♪「愛と死の輪舞」reprise
返してあげよう、その命を
そのときあなたは僕を忘れ去る
あなたの愛を勝ちうるまで追いかけよう
どこまでも追いかけてゆこう
愛と死の輪舞

皇帝はエリザベートの死を悼んだだろう。そして何をした?その心は、彼女を追いかけたのではないか?
皇帝と王妃の役目が彼女の命でもある自由を奪っていたのだとしても、ヨーゼフは自分の力ではそれを変えることは出来なかった。
彼女は最後にトートによって自由になった。ヨーゼフは自分が縛っていた彼女の命を、彼女に返したのだと気付いたのだ。
だからこの歌を歌ったのだ。

彼はエリザベートを愛したのだろう。だが同時に皇帝である彼がエリザベートを愛することで、彼女の自由さや輝きを縛っていることに気付いていた。
それでも王家のしきたりや伝統に優先される生活は、政治や権威のため、ひいては国家と国民のために必要な犠牲でもあると彼は考えていた。
だがそのせいで、彼の愛がエリザベートの本来の魅力を失わせてゆくのが歯がゆかったのではないか。そうでなければ、いくら王妃に美貌と力があったとはいえ、自由な旅と王宮を離れた行動を長年に渡って許しはしなかったはずだ。
それはむしろ、彼がエリザベートに許されるための選択だったのかも知れない。
エリザベートの旅と美への浪費に見える大きな支出は、厳しいオーストリアの財政に与える影響はたしかにあった。
だがヨーゼフ自身は服が破れても繕わせて節制させたと伝わっている。妻が自由にしているのだから、自分も贅沢をしたいなどという発想は彼にはまるでなかったのだろう。
自分が王家に縛り続けているエリザベートが少しでも自由に振る舞えるように、せめて自分は倹約につとめたかった。そういう人物だからエリザベートも彼を愛したのだろう。
だから二人の間の息子を失うことになる選択も、父親としてではなく皇帝として下したものだった。ヨーゼフはエリザベートを愛したが皇帝として生きた。そう生きねばならなかった。
エリザベートもまた最後まで、皇帝を支える王妃としてだけではなく彼女自身として生きねばならなかったのだ。

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これは美談ではない。妥協でもない。
互いが譲らずに生き残る道を探り続けて、自分というものを見失わないように必死に彷徨っていた夫婦がいたということだ。だからこそ終盤の、同じベンチに座らずに来し方と行く末を話しつづける二人の姿に心を打たれるのだ。
そして、エリザベートの長い長い物語が終わり、レビューのショーが始まるときになってはじめて、ヨーゼフは冒頭の歌を歌う。 
トートが歌い続けていたそれをヨーゼフがまた歌う。たしかに愛と死が輪舞のように廻っている。鏡の中の黄泉の国ーー彼岸から此岸へとトートが歌いつづけた恋の歌を
いってしまった彼女にむけて、ヨーゼフは此岸から彼岸へと歌ったのだ。

次回につづく

トートはどうだったのか?➡②
エリザベートとして生きる、とはどういうことなのか?➡③ 

ここでこの歌をこの人に歌わせるのか!という意味で最も衝撃的だったのがヨーゼフの歌う、この「愛と死の輪舞」だった。まさにリプライズ、繰り返しの真骨頂だったように思う。