ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』

 

きっかけは実写化のポスターを目にしたからだった。役者さんがポーの一族の主人公であるエドガーに本当にそっくりで驚いた。まるで漫画の中から抜け出してきたように見えた。演じたのは花組のトップスターで明日海りおさんという方。
当日、宝塚は初めてだったので期待と不安を抱えたまま銀座の劇場にむかった。
結論からいえば、不安は杞憂だった。
写真よりも実物の方がもっと本物のように見えたからだ。

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一幕目の終わりは一同が集まるホテルのロビーが舞台だった。1870年代のイギリスは新興の港町、ブラックプール。そのホテルの華やかなパーティーに集ったのは心ない人々ばかりだった。あるのは欲望と打算だけ。婚約者を裏切って女漁りをやめない医者、地元の名士の遺児であるアランに自分の娘をあてがおうとする父親、アランに取り入ろうとする娘とその家族たち。盛大なその婚約パーティーは虚飾に満ちたものだった。
バンパネラであるシーラもポーツネル男爵も、そんな人間たちを咎めるどころか獲物としてしか見ていない。妹のメリーベルだけがエドガーの側にいるが、幼くしてバンパネラになった彼女は永遠に成長することができず、人の愛を知るすべがない。

エドガーは妹を守るために、アランを標的に定めようとするが、誰かに自分の正体がばれてしまえばたちまち命を落とす危険との隣合わせに絶望し、心を閉ざしていた。

アランにもエドガーにも理解者はいなかった。彼らは孤独に追い詰められていた。
暗い思惑が渦巻くきらびやかな夜の中にたった一人でエドガーは嘆く。
『愛のない世界に生きねばならないのか』
オーケストラが響いて、嘆きが歌になる。
歌うエドガーは儚げで、美しかった。
愛のない虚飾の世界に、エドガーは確かに存在していた。
そこに彼は実在したのだ。

彼の歌う孤独と悲しみが、憐れみをもってぼくの目に映し出された。
ぼくはエドガーの身にこれから起こることを思い出して、泣いていた。
それは永遠の別れと永遠の彷徨いだ。
だがその悲しみにも意味はあったのだと舞台に立つエドガーに気付かされた。

彼の身を案じ、彼の悲しみを憐れんで泣くぼくは幸福だと。

そのせいで、幕間になっても涙がとまらなかった。

時をこえて彷徨うバンパネラ達の物語は、まさしく40年の時をこえて宝塚によって語り直された。舞台をつくりあげた人たち全員がエドガーたちのことを深く理解しているだろう。
そうでなければこんなにも完璧に演じられるわけがない。姿かたちが完璧なだけではなく心まで理解されてはじめてエドガーはそこに存在できた。観客であるぼくたちにもその理解が演技や表現となって、胸に痛いほど伝わってくる。

ある一人の人間の苦悩やかなしみというものがこれほど多くの人に理解され共感されるのならば、ぼくたち一人ひとりの抱えるかたちのちがうそれぞれのかなしみも、誰にも理解されなくとも和らぐことがあるのではないだろうか。
その役目を物語というものが担っていてくれるのではないだろうか。

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萩尾望都の物語になぜ自分は引き込まれるのだろう。
バルバラ異界』『残酷な神が支配する』『トーマの心臓』そして『ポーの一族』。
どの作品も、自分の居場所を求めて自分の傷を見つめる人々が主人公だ。
貪るようにその素晴らしい作品たちを読みながら、いつか誰かに自分が肯定され、理解されることをぼくは欲していた。
当然のことながら、本を読むだけでは誰にも理解などされはしない。自分を主張し、現実を見なければ。ゲームやマンガやファンタジーは逃避なのだから。

でも本当にそうだろうか?

自分が欲しても得られないものを、「現実の世界で得ている」エドガーが舞台の上にいる。彼の嘆きや問いは、時空を越えて今ぼくたちに届いている。
ぼくはそのことが嬉しかった。エドガーに、心のなかで声をかけたかった。
キャラクターを現実の中に見ようとするのはおかしいことかもしれない。
でも物語があるのは、まさにそのためなのだとぼくは思う。現実の中にこそ物語を見るのだ。
読み手を温める毛布になるために、何度でもマッチ売りの少女は自らを凍えさせるように。悲劇的な物語が存在する意味が、どこかに必ずあるように。

だが物語を信じることそれ自体は、苦悩の解消とは別物だ。
昇華はするだろう。成仏もするだろう。でも自分の苦悩は自分で向き合うしかない。
でもそれはつらい。自分の弱さを直視できない。どうしても自分が信じられなかったぼくは、物語というものを信じることで、ぼくにとっての信仰としたのだ。

だが、キャラクターや物語が何のために存在するのかという、ぼくの信仰の課題は成ってしまった。

舞台上で嘆くエドガーがぼくの目の前にいる。目の前に完璧に実在している彼に、なぜ君はそこにいるんだい?と問えるだろうか。

彼もただ、存在していていいのだ。
フィクション――「そらごと」が現実に「まこと」であると、無邪気にずっと信じていたくて、それがはじめてぼくの目の前で実現されるところを見た。
ポーの一族』は、この物語を現実に実現させるための多くの努力の果てしなさの中に、時をこえて成ったのだ。その得難い幸運に巡り会えたことに、感謝したい気持ちになった。この物語に出会えた幸福を。エドガーに出会えた幸福を。

暖かい胸中とは裏腹に舞台では悲劇がつづいていく。それが避けようがない悲劇だと知っている。それはどこにいてもぼくたちにも起こりうると知っている。ぼくはその悲劇の結末を気にするよりも、演じられているのがこの物語でよかったと思い続けていた。

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舞台の終幕は、1950年代のギムナジウム、スイスの寄宿学校が選ばれた。時をこえてさまよう彼らがそこに転校してきた場面からはじまった。
バンパネラの存在を揶揄して歌う生徒たちの問いに、うそもごまかしも選ばずにエドガーは事実を述べる。
『ああ、そうだ。ぼくにはメリーベルという妹がいたよ』
自分はバンパネラだという告白に近いその言葉を聞いて気圧された生徒は、偶然って不思議だね、と口ごもりながら離れていく。
エドガーはそれには答えずアランの手をとって門へと進む。
そして二人は門をくぐる前に振り返り、こちらを見る。
ぼくたちを見る。
彼らの過去を見てきたぼくたちを。

二人は過去を振り返るのだ。
出会いは偶然などではなかったと示すように。
二人は時をこえて生き続けるのだ。

その彼らの着ている制服の色は、薄い青緑色だった。
うつろいやすい儚さを嘆く、露草色とも呼ばれる花色だ。
これからもずっと、彼らは誰にも別れを告げずに時を巡りうつろい続けるのだろう。

その色が、彼らを知るのは巡る季節と過去だけだと最後にぼくたちに知らせてくれるようだった。
露草の花色の制服を着て、門からまた旅立とうとする彼らはまだ過去を見つめている。
まだぼくたちを見つめている。時をこえて彷徨い続けるという物語が本当にいま、奇跡的にここに姿を見せていて、そして終幕と共に消えていく。オーケストラが鳴り、ゆっくりと照明が落ちてゆく。
その色も闇の中に消えてゆく。二人とともにその花色が消えてゆく。

美しい夢のような時間が、現実にあったのだという満足感とともに。

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舞台が終わって、大変に幸福な気持ちで帰路についた。何日かかけて家でパンフレットを読み返しながらこのブログを書きあげた。それで最後のギムナジウムの制服のデザインは、シュロッターベッツのものだと気がついた。あれは『トーマの心臓』の舞台になるギムナジウムの制服だ。あの制服は、ユリスモールとエーリクの着る服の色でもあったのだ。なんてこった、とただただ感心して脱帽してその幸せをかみしめる。