ジム&アンディ

 ジムキャリーという男の話をしよう。
『マスク』や『トゥルーマンショー』でおなじみの皆大好きあのジムキャリーだ。

『ジム&アンディ』という映画は、アンディ・カウフマンの生涯を描いた映画『マン・オン・ザ・ムーン』の主演をジムキャリーが演じていく舞台裏のドキュメンタリーだ。
カウフマンは『変わり者の天才コメディアン』で、アメリカでは『なりきり芸の第一人者』と賞賛される伝説的な人物だった。
このドキュメンタリーを重層的に面白くしているのは、舞台裏の映像は20年前のもので(当時は公開許可が降りずにお蔵入りになっていた)その映像を現在のジムキャリーが見ながらインタビューに答えるという構造になっていることだ。
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人が何かにのめり込む時に、自分をコントロールすることなど出来るのだろうか。
ジムキャリーは、自分が心底憧れた天才を完璧に演じようとして、強い不安と緊張を抱えながら撮影に臨んでいた。彼は撮影以外でも四六時中アンディでいることをやめなかった。
『ジム&アンディ』の中でも、彼の徹底したなりきり演技には危なっかしさが見えた。彼自身が演技を忘れて、暴走してしまうのだ。スタッフが止めようとしても外からの力で暴走は止まらない。
暴れまわってセットを壊し、監督に暴言を吐き、酔っぱらって車を乗り回す(私道なのでセーフ)。
ジムキャリーがなりきったアンディは常に自分が実在するかのように喋り、アクセルを全開にして注目を集める。
なぜそこまで演技にのめり込むのか?
インタビューは疑問に答える彼を捉えようとする。
だがジムキャリーは見違えるように年を取り、まるで仙人のようにやせこけて髭をはやし、静かに落ち着いた様子でいる。20年前のハイテンションでエキセントリックな面影はどこにもない。思慮深く丁寧にインタビューに答えている。

ぼくには、彼が父親の話をする場面にだけ本人の顔が見えていたように思えた
この映画の中でそこだけが、彼は誰かを演じていなかった。
『マスク』の公開当時、90年代に成功の絶頂にいた彼が父親に残したメッセージを劇中でぜひ見てほしい。
その行為は桁外れで狂っていて演技じみているけれど、そうせずにはいられなかったといういびつな愛情に満ちている。
そのパフォーマンスはまるで彼そのものだ。
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一方でインタビューに答えている仙人のような老人はとても真剣だが、それゆえにもうアンディとは別人に見える。
なんならジムキャリーとも別人に見える。
エネルギッシュで陽気に見えていた、ぼくらを笑わせてくれたジムキャリーはもういないのだ。
老人の告白を聞いていると、それでもいいじゃないかと思えてくる。
別人から話を聞いても仕方がない。
彼はすでに暴走することをやめている。
そのことがさびしくて、ほっとする。

『マン・オン・ザ・ムーン』の撮影が終わったあと、また自分が何者か、何をしたいのか、分からなくなってしまったと老人は言った。自分を見失って塞ぎ込んだ時期になった。悲しい自分に逆戻りしてしまったと。
きっと見失われた方のジムキャリーは、アンディと共にどこかでのんびりビールでも飲んでいることだろう
彼はもう誰にも、自分の中に価値や才能がないことを見抜かれる心配をしなくてもいい。弱さや悩みをマスコミに暴露されて、破滅する恐怖を感じなくていい。もう夜が眠れないほどの緊張を感じなくてもいいのだ。
永遠におどけ続け、ふざけ続けて、好きなだけ観客を笑わせ続けることが出来るだろう。
映画の中の彼には心配事など何もないように見える。そういう姿を演じきり、やりきったからだ。
だからぼくらの知っているジムキャリーは、映画の中にだけ生きている。

それはこのインタビューの何気ない冒頭ですでに語られていた。
彼にカメラをむけた監督が問いかける。
もう撮り始めてもいいかな?と。
彼は答える。『もう映画は始まっているよ、人生は映画の中の真実にしかない』
その通りだった。仙人のような老人の言葉は見た目どおり正しい。それとも彼は仙人になりきっているのか?
わからない。そうだとしても全く見抜けない。そうだとしても、そこに違いはない。
彼からは諦観と死の匂いがするが、すべてやりきって望みがないから満ち足りた表情でいられるのだ。
そこで監督から質問される。
望みがなくなると、どうなるんだ?と。

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その答えが気になるならあなたはこの映画を見るべきだ。一度ならず自分を見失っていた彼が、欲望についてどう答えたか。ジムキャリーが好きだったぼくは呆然としてしまった。

このドキュメンタリーは『彼の演じた映画』の終わりを映す、長いエピローグだったのだ。

彼の『映画』は、彼の『演技』はいつ始まって終りを迎えたのか。
それは、ジム・キャリーが自分自身のエゴを車の後部座席に放り投げて、アンディになるためのオーディションに挑んだ時から、すでに始まっていたのだ。

死んでしまった憧れの人を――心からその人のことを理解したいと思った誰かになりきって、自分では止められなくなるくらいまでに演じようとしたその時から。