アウトサイダー 異邦人(2018.Net Flix)

『夜に散歩しないかね?』藤田和日郎 

からくりサーカス、アニメ化発表とのことで。

 

1954年の大阪が舞台だ。地元のヤクザ組織に、出所したばかりのアメリカ兵ニック(ジャレド・レト)が奇縁によって紛れ込むところから物語が始まる。ニックは刑務所で同房だった清(浅野忠信)を助けたことから組に世話になるが、戦後の日本でアメリカ人のヤクザというのは異物であり異形の存在だった。

前半は画面の色彩が綺麗で、飽きずに見ていられる。昔の日本の情景なのに異国のように見えるのだ。見ているぼくが異邦人になったように感じてくる。どぎついのに褪せた色合いの繁華街のピンクネオンが画面に反射する。
ニックが白松組の盃を受けて組の一員として身内になると、その不思議な色彩は影をひそめる。逆に画面の中には陰影が際立つようになっていく。

オリエンタルに踏みはずさずに、いまは古い戦後の歓楽街の路地裏を葛飾応為のような光と影の表現で描いてゆく。美術も音もつくりこまれていて盛り上がる。
この監督が攻殻機動隊を撮っていたら面白い街並みになっただろう。

場面を満たす光の色使いが面白いのがこの映画の特徴だ。シーンの意味をセリフ以外で表現するために光が役割を担っている。
出所後のニックの宿屋の赤色灯、二人の車内のカクテル光、彫り師の部屋の明り、路地裏の闇にうかぶ頼りない提灯、それらのシーンに言葉はないが光が感情を浮かび上がらせて、役者の顔に陰影をつける。

とくに息を呑むほど美しかったのはニックが刺青を彫るシーンだった。
澄んだ青色の混じった光に映える、彫りの深い彼の横顔にむけてカメラが流れる。その顔越しに映る筋肉質な背中に鯉を彫る。
引かれる墨の稜線は彼の顎のラインを照らす光と同じ藍色だ。
そのシーンでは清の妹、美由を演じる忽那汐里が魅力的な表情をみせる。
彼女の背中にもまた美しい刺青がすでに彫られている。そのことを清は知らない。
油っぽい偽物にはまるで見えない、彼女の滑らかな肌の上に描かれた二匹の鯉の刺青にニックの手がゆっくりと触れる。
ついため息がでて、その鯉のうろこに触れてみたくなる。
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映画のなかの『濡れ場においてけぼりにされる問題』はクリアされている。
アウトサイダーでは繊細な刺青のディテールを、肌の質感に訴えるように丹念に描写している。その肌に、割れ物を扱うように大事そうに触れるニックの手付きだけで、性的な描写に頼らなくても二人の関係性がよく理解できるからだ。
これはいわゆるフェチズムともちがう。
二人の寝床に曙光がさしこみ、背中の刺青を輝かせている。その質感描写が優れているのは、やはり光のコントロールが綿密にされているということなのだ。

それを物語っているのが『歩く』シーンの多さだ。
木造の廊下を、緑深い山の中を、暗がりの路地裏を、様々な薄明かりに反射されながら男たちが歩き続ける。歩く姿を正面から撮る。その顔に映る陰影を撮り続ける。
歩く道は迷路のように複雑で、曲がりくねっていて先が見えない。
歩くシーンに意味をもたせて、執拗に繰り返し撮るこの監督は信頼できる語り手だろう。若頭の椎名桔平は歩行を見事に演じている。ニックは歩きながら影を深くしている。男たちの歩く様を眺めているうちに、自分もアウトサイダーな夜の道に紛れ込んでいくようだった。

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光と影のあたる場所ーー社会や共同体の裏道を歩くのがヤクザだとすれば、その顔に射す光と影こそが彼らの人生を彩るのだろう。彼らに射す光は享楽で、影は苦難だ。
白松の組長は面子にこだわり死地にむかう。決断する際に泳いだ目をカメラは撮している。だから最後の申し出に乗ってしまう。彼らの面に影がさした時の表情を、まざまざとぼくらは見せつけられる。
それは暴力でも血飛沫でも表現できない、光と影によってうつろうものだ。
刺青の出来映えと歩き方、表情の陰影を見れば彼らの貫禄がわかるのだ。
だから後半のアクションは重要ではない。この映画ではそこをさらりと流す。長々した愁嘆場もない。ただのバイオレンスに頼る映画ではないからだ。
ジャンル的ヤクザ映画の中のアウトサイダー、それがこの映画の立ち位置だった。
役者の表情に見応えのある、いい映画を見た。

 

椎名桔平は今後、禿げてもきっと格好いいだろうな。ジャレド・レトも本当にいい顔をしている。茫洋としたうつろな目付きなのに色気がある。ダラス・バイヤーズクラブの女役だったと知って驚きとうなずきが半々。
ダラスもレト目当てで見て損がないのでオススメ。