マンチェスター・バイ・ザ・シー(2017)

過ちをおかした。
そのために死ぬことも出来ない。
苦しくてそのことを乗り越えられない。
だからここにはいられない。

自分が苦しいということを、人に言える。
それすら自分に許してこなかったのだろう。苦しいと思うことすら許される訳がないと思っていたのだろう。
たったひとりで、そう思い込んでいた人間が主人公の映画だった。
自責の念が拭いきれないことは、誰しもあるはずだ。そういう人にぜひ見てほしい映画だと思う。

苦しみを告白すること。
告白する相手がそこにいること。
相手が生きてそばにいること。
ただそれだけがそこにはあって、でもそれが理由にも救いにもならない。それでもいい。

だがそれでも生きる、と言ってしまうのはこの映画からあまりにも離れて、他人事になってしまう。
『ただ傷つきながらそこにいる』
そういう人のそばに佇んで、見守る映画だからだ。
この映画には奇跡はない。死者との邂逅もない。ただ思い出すだけだ。ただ夢を見るだけだ。

夢の中で父親が娘たちと会話するシーンで、ぼくは安堵した。表面の言葉に息が詰まるが、父親が娘たちにそう言えたことがこの映画を形作っている。
監督はやさしい人だろう。苦しみや悲しみに、ただそのそばに佇むようにしてそこにいる人もいると知っているから。許しや救いを欲することが出来ないで、立ちすくんでいる人もいると知っているから。
そういう人にもほんのすこし慈悲と憐れみがもたらされてもいいはずだ。

そうであってよくない理由はなにひとつない。
ちいさな希望がもたらされてもいい。
たとえそれが叶わなくてもいいのだ。
それが悪い理由はどこにもない。この映画を見てそう思った。

エンディングはマンチェスターの冬の景色を見せる。それが終わるとともに映画が終わる。
冬が終わる。その美しい終わり方を見て満足しているぼくがいる。
銃や船やエンジン、家具や部屋に明示されたものの変遷を語ろうかとも最初は思った。だがそれはこの映画には似合わないだろうと、思いとどまって口をつぐむことにする。
この映画は、語れるはずだったさまざまなモチーフに口をつぐんで、ただ見守る優しさを見せた。そのことに敬意をもってぼくも少しでも倣いたいと思う。