①ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年) 

1970年代、ベトナムハノイ米国との戦争の傷跡と混乱が極まる街の無法が、命がけのロシアンルーレットを見世物にする賭博場で臨界点を迎えていた。

『時間がないんだ』
テーブル越しにマイケルが語りかけた。ここから脱出するために目の前の男を迎えにきたのだ。
周囲では命のやりとりに興奮した多くの観衆が野次を飛ばしている。テーブルのそばで立会人が口上を唱えて、観衆を煽りはじめた。立会人は観衆に見せびらかすように大袈裟な身振りで弾丸を込めていく。
拳銃がテーブルに置かれた。
『脱出するんだ、聞いてくれ』
彼――ニッキーはその言葉が届いていないかのように、拳銃をためらわずに自らのこめかみに当てた。
『やめるんだ』
静止もむなしく、ニッキーは平然と引き金をひいた。
かちん、と乾いた音がした。
死線を越えたニッキーの反応は、ただ瞬きをしただけだった。
『くそっ、なぜだ』
観衆は沸いた。賭場は熱狂に満ちている。マイケルは焦っていた。

ニッキーの瞳がこちらを見つめていた。
そこには何の感情も読みとれなかった。
立会人が号令をかけて観衆を黙らせる。
恭しく大袈裟な手つきで、再び拳銃に弾丸を込めた。
薬室は回転しながら銃身に納まり、立会人の手の内で弾がどこに込められたのか見えなくされた。
再び、拳銃がテーブルに置かれた。
ニッキーが拳銃を見ていた。
マイケルを見るときとは違って執着心を露にした険しい目だった。
『これがお前の望みか?これが?』
マイケルは拳銃を握りしめた。
ニッキーは、彼の弟は、引き金を引く瞬間にしか生きていないのだ。生き残ることなどまるで考えていない。
引き金を引く一瞬を得るために、マイケルから銃を奪ってでも自分のこめかみに突きつけかねない。相手が自分の兄だともわかっていないのだ。
ニッキーの魂は奪われてしまった。戦争によって。この命を投げ打つギャンブルによって。
その怒りと哀しみがマイケルの胸に渦巻いた。あまりに不憫だった。
マイケルは銃を自分の頭に突きつけた。
その様子を見たニッキーが急かすように顎をふった。はやくやれ、と。
『・・・愛してるぞ』
絞り出した声は震えていた。
こうしなければ語りかけられない。言葉が届いているのかも分からない。それでも、ニッキーを元に戻してやらなければならない。一人でこんな所に置き去りにしておけない。あの時のように、弟をまた見捨てることなど出来なかった。
指に力をこめる。たまらずに目をつぶる。

かちん、と乾いた音がした。
観衆が沸いた。
息を吐いた。 汗が噴き出していた。周りの騒がしさなどどうでもよかった。
考えなければ。
ニッキーに届く言葉を。
立会人が三度、静寂をもたらした。
銃に弾を込めなおす。
このわずかな静寂の中で。弟は引き金を引く瞬間だけを欲している。ニッキーはそれを求めている。そこに何かが顔を出す。その一瞬に賭けて、マイケルは弟に届く言葉を、語りかけなければならなかった。