Death Stranding & The Last of Us PartⅡ [E3 2018] (Trailer)

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老化の雨を避けながら、装備と重い荷物を背負って運び、果てしなく広大で荒廃した世界を独り歩く。見えない巨獣に追われて息をひそめ、霧に浮かぶ死霊の目をかいくぐって這い進む。常に死と隣り合わせの緊張とともに。

これが小島監督のゲーム、これがデス・ストランディング

たぶん、おそらく、ぼくはこのゲームが好きだ。

 

そして、ラスト・オブ・アス PartⅡ

The Last of Us Part 2 Gameplay Trailer (4K) - E3 2018 - YouTube

あえてサムネイルはのせない。血まみれに注意してほしい。

成長したエリーが前回のトレーラーでは、敵の血の海の中でギターを弾き歌っていた。

「魂が癒されても 正しい道は歩めない 私はまともじゃないから」と。

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今回のトレーラーでは、エリーの甘く柔らかなくちづけの記憶のあいだに、彼女の行ってきた凄惨な殺戮のシーンが流れていく。

それは復讐だ。エリーは大切な何かを失い、それを奪い去った者たちへの復讐に身を焦がしている。どうしちまったんだ、エリー。ジョエル(前作の主人公 cv:山寺宏一)はお前をそんな娘に育てた覚えはないぞ。殺すのはジョエルに任せて、お前は安全に。。と言いかけて考え込んだ。

守ってきた娘のような存在が、「私も仇を討ちたい」と言い出したらどうするのか。そして実際に彼女が、失われたもののために敵を殺すことを止められないとしたらどうすればいいのか。

 

このトレーラーに対して、暴力的過ぎるという批判があるようだけどぼくはそれは的外れだと思う。なぜならいつだって理由をつけて、この種のアクションゲームはプレイヤーの暴力性の発散をさせてきたからだ。それは物語の報酬としても、カタルシスとしてもずっとそうだった。だからこれが初めての暴力的なゲームというわけじゃない。そういう批判は、おそらくエリーが凄惨に人を殺しているから、その様が受け入れられないということなのだ。

裏を返せばジョエルだけが、男だけが、仇を討つために自分を犠牲にして人を殺す『権利』を、ゲーム上ですら独占して持っているわけではない。

エリーが、彼女が、女の子が、破滅に向かってただ復讐のために人を殺し続けることを選ぶとしてもぼくたちにそれをとめる権利があるのだろうか。物語では女性は凄惨な復讐をしてはいけないとでも言うのだろうか?常に守られて救われるヒロインでいなければならないとでも?

 

ぼくたちはいままでゲームに、死に至る自己破壊とヒロイズムに満足しながら復讐する快感を求めてきてしまった。それが、ゲームの中で我が子のように感じてきたキャラクターが、同じようなそれを求める事態に直面してしまった。まるで反抗期の子供と向き合う親の心境のようになってくる。「私はまともじゃないから」というエリーを、どうしてそのまま受け入れられないのだろうか。自分自身を振り返ってみれば、誰かに自分が受け入れてもらえない苦しさがわかるはずなのに。

だとしたらぼくたちは、ゲームを通じてぼくたち自身をその暗い欲望から救い出さなければならないのではないだろうか。自己破壊の快感の誘惑から。その快感を男のキャラクターに独占して投影させるのを当然だと思ういびつな考えから。そして自制するのは暴力性の表現などではなくて、暴力性を付与させる対象を恣意的に選択できると思っている人たちの言葉の軽さのほうではないのか。物語の中でエリーのキスの相手が女性だったことが示すように、「対象の恣意的な選択」など出来はしないのだから。

あのノーティドッグならそんなお話をやりかねない。前作のラスト・オブ・アスの結末を知っていれば、恐ろしさと期待は大きくなる一方だ。

それがどんな物語になるのかはもちろんまだわからないけど、自分自身に大きく深く刺さる物語になるだろうと予感させるトレーラーだった。すこし怖いくらいに。