②孤狼の血(2018)

これはご都合主義の物語ではない。
大上が限界まで手を尽くしたひとつの思いが、大上を疑う日岡の軌跡を称えるというものだったのだ。
人には、人を能動的に強制させる力はない。
本質としての人を変えることなど出来ない。都合よく操ることなど出来ない。

ただ、こいつはいい刑事になる、という大上の希望のようなものがそこにはあった。
狼の血を継ぐものになると。

日岡が大上を疑っていることなど、大上はよく知っていた。
そのまま日岡の好きにさせていたこと自体が大上の目的と行動に弱味も疚しさもない自信の現れではなかったか。
その期待をうけとめて、日岡は己の不明を恥じる。それは最大の原動力になる。
後悔が後悔のままではいられなくなる。
遺志を継がねばならない。果たさなければならない。
そういうドラマになっている。
それは復讐と流血と惨死をもたらす。
それは避けようがない。
だからこの映画は、冒頭から『ひりだされたもの』にまみれて、ぼくたちはその凄惨さを食わされていることに気付くべきなのだ。
そのメッセージは直截で強烈で親切ですらある。この映画はそういうものを見せますよ、という監督の熱い覚悟が冒頭のヤキ入れのシーンからは匂い立っていた。

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くそ食らえ、という罵倒がある。
ぼくたちは狼の死に様を見ている豚であり、娯楽として供されるそれを食らうだけの存在なのだろうか。監督はけして、そう言いたいのではないだろう。
この映画はたしかに暴力と血にまみれたものを見せるが、その中にも人の輝く一瞬があることを教えてくれる。ろくでもない不条理な現実のなかで暴力に捕らえられ、血に沈み、敗れて無惨に死んだとしても、その輝きだけは残り継がれていく可能性があることを見せてくれる。小説と映画の差異もまさにそこに焦点を当てているのだから。


これこそが暴力というものをエンターテイメントに描く唯一の価値ある意味だとしたのは、『マルドゥック・ヴェロシティ』を描いた冲方丁だった。

昭和の『仁義なき戦い』は、木っ端のように死んでいく若い衆たちをやくざ戦争と現代社会の影の犠牲者として描いていた。だがこの平成最後の年に公開された『孤狼の血』という映画は、死者に犠牲者であることだけを強いてはいない。それが新しい暴力と映画の語り口であるのは、絶望の中にしか真の希望はないと言ったオルテガ・イ・ガセットを思い出させながら爽やかなラストシーンにつながっていく。

ぼくは真夏にもう一度この映画を見たくなった。今度はネクタイをゆるめて見ることにしたい。