『エリザベート』 ③エリザベートの長い旅-1

9月の3・4日と大劇場で『エリザベート』を見る機会に恵まれた。台風の混乱はあったけれども、素晴らしい舞台だった。初めて見る大劇場でのエリザベートは、芝居も群舞も歌もすべての迫力がすごかった。

そのあと10月1日に川崎のライブビューイングで、大劇場の千秋楽を見た。退団の挨拶やサヨナラショーにも触れることが出来て、温かい気持ちになれた。

色々なエリザベートを見たことで、続きを書こうと思えた。

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『♪ 私だけに』(リプライズ)


今こそお前を黄泉の世界へ迎えよう(トート)


連れていって 闇の彼方 遠くへ
自由な魂 安らげる場所へ (エリザベート)


二人きりで泳いで渡ろうよ
愛という名前の深い湖を(トート)


涙 笑い 悲しみ 苦しみ
長い旅路の果てに掴んだ (エリザベート)


けして終わる時など来ない
あなたの愛
おまえの愛  (エリザベート・トート)

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舞台の最後に歌われる、エリザベートとトートの愛の歌だ。彼女はトートを受け入れて、トートはまるで恋人へ語りかけるような口調となり、二人は優しく歌い合う。

リプライズされる前の『♪私だけに』とは全く違った歌になっていた。

<「死は逃げ場ではない」の意味>
トートはエリザベートを殺したりはしなかったが、彼がルキーニを通じて彼女に死をもたらしたことは間違いない。
だがエリザベートは死を望んだのか?
もたらされた死を、彼女は最後に受け入れていたように見えた。

エリザベートがルキーニに刺される寸前、手に持っていた「傘」を彼女自ら手放したように見えた。
その前の病院の場面では、素顔を隠すための、口と歯を隠すための、真っ黒な扇子も手放している。
そして破れて向こうが透けて見えるヴィンディッシュ嬢の白い扇子と、自分の黒い扇子を取り替えているのだ。

女王という役割と孤独を、扇子にこめてーーーー自分が女王だと妄想するヴィンディッシュ嬢を抱きしめてやり、逆に彼女に涙を拭われた。
命だけは渡さないという自由への執着を、傘にこめてーーーーそれを手放し、もたらされた死を拒もうとはしなかった。

素顔を隠すための仮面のような扇子と、ナイフに襲われた時に唯一身を守れたはずの手にしていた傘のそれぞれを、エリザベートは手放したのだ。そして、その身に受け入れるかのように、ルキーニのナイフが吸い込まれていった。
彼女は「死」を受け入れたのだ。

 

エリザベートが絶望から死を望んだ場面では、逆にトートは彼女を拒否している。
『まだあなたは私を愛していない、死は逃げ場ではない』と言って。
逃げ場ではないとしたら、トートとエリザベートにとって「死」とはなんなのか?

リプライズされた歌のなかでエリザベートはトートに、「連れていって」と言った。
死へーーあなたとともに、湖の彼岸へと。
この選択は、彼女が最初に歌った言葉とは一見して矛盾があるように見える。
彼女は「自分の命を委ねるのは、自分にだけだ」と歌のなかで誓っていたからだ。
そうやって孤独のなかでもトートの誘惑を拒み続けて、美貌をみがくことを武器にして生き残ってきた。
それが最後には、トートにその身と意志を明け渡してしまったのか?
ぼくはそのことをずっと考えていた。
それが悲劇なのか?そうではないだろう。
そんな説明では、美しいあの時間を言葉にできていない。

 

「トート=死という存在も、きっとエリザベートが自分で創り出したものだと思うんです」

(エリザベート役・愛希れいか)

人生に苦しみを感じたとき、それが自分の力ではどうしようもない悲しみを伴うとき、誰にでも死を希求してしまうことはあるだろう。
エリザベートもそうだった。だが彼女は死に強く惹かれながらも、生きたいと願っていた。息子の死にまみえるまでは。
ヨーゼフと言葉を交わしながら、同じベンチに座らずにいたエリザベートは、すでに自分を待っている存在を予見していた。
そして死が、トートが自分を待っているのだと感じていた。それでもウィーンには帰らずに旅を続けた。
死の待つ港への旅行きを、彼女の選択とよんでもよいのだろう。死に際しての心構えというものは、どんな不慮の死であっても、その心構えがあったことが選択をしたと認められる意思になる。

彼女は死を避けなかった。恐れてはいなかった。自分の進む先に死があることを知っていた。だから、自分から命を誰かに委ねたりすることはなかった。
彼女の選択は『私だけに』という、孤独の中にも生命と自由をみつけて自分の欲望を肯定する、力強い歌の魅力をけっして損なうものではなかったとぼくは思う。