『エリザベート』 ③エリザベートの長い旅-2

<「連れて行って」という言葉の意味>
エリザベートは、幼いころから天真爛漫だった。詩が好きで、狩りが好きで、旅が好きな、夢見がちで聡明な少女だった。その奔放さが皇帝フランツに愛されるきっかけになったのだ。
だがエリザベートは王家に嫁いでから、その性格が変わっていった。姑のゾフィーに奪われた自分の生活と自分の子供を取り戻すためには、力強くならなければいけなかった。そのために政治に介入し、自分の美しさを武器にして影響力を持とうとした。それでも王宮のなかでの自由は得られず、ハンガリーや外の世界を旅する自由を求めるようになっていったのだ。
そのためには自分の弱味を誰にも見せられなかった。皇帝にすら、自分の味方になるかゾフィーの味方につくかを選ばせて、取引をせねば自分が生き残れなかった。
エリザベートという王妃はけして誰かに自分を「連れていって」とお願いしたりはしなかった。自分の力で、行きたい場所へ行くために、考えて行動し、そして本当に王宮を飛び出したのだ。


だが本来の彼女はどうだっただろうか?

エリザベートは昔から「ここではないどこかに行きたいから、私も連れていってほしい」という気持ちをもっていた。幼い頃から父についていき、旅や冒険をしたいとずっと思っていたのだ。それは劇中の幼いエリザベートが歌う歌からもよく分かる。

「♪パパみたいに」
パパ、一緒に連れていってよ パパの趣味は全部好き
夢を詩に書きとめ 馬術の競争 パパみたいに なりたい

今日は木登りは禁止なの 綱渡りの練習も

弟たちとはサーカスごっこができる

どうして連れて行ってくれないの? 外国に旅するのね
自由に生きたい ジプシーのように
気まぐれに 望むまま パパみたいに 生きたい

これは最初に彼女が歌う歌だ。メロディは奔放で明るいが、歌詞には彼女の心の寂しさが透けてみえる。

父親の好きだった旅は貴族社会の社交からの逃避でもあった。彼は親戚付き合いが嫌いで、幼いエリザベートはそれをよく知っていた。
エリザベートは父親の旅にいつも同行をねだっていたが、王家に嫁いでからはそんなことは出来なくなってしまった。
「連れて行って」と言えなくなってしまったその変化は、幼さからの成長ではなく、王宮で生き残るための適応だったのだ。
ここではないどこかに行きたい、自分だけではゆけないから誰かに連れていってもらいたい。
窮屈さを嫌って自由を愛するエリザベートは、父親と似た者同士だった。
だがそんな望みは、王宮のなかの世界では認められることはなかった。誰かに許可をもらってそうすることが出来ないのなら、許可などいらないくらいに自分が強くならなければいけない。娘の育児や息子の教育も、何年もかかって自分の方針で行わせることが出来るようになったように。
自由に憧れていたシシィが、自由を追い求めるエリザベートになっていく。だが実際は、自由を求めていたはずなのに、その過程で束縛が増えていくのだ。

だからこそエリザベートはトートによって本来の自分を取り戻そうとしていたのではないか。王家に嫁いで険しい道のりを生き残ってきた、自分の悲しみが消えなくとも、幼い頃の自由奔放なシシィと今のエリザベートが死のまえに、和合できるように望んだのではないか。

そのためには死を受け入れる心に後悔がなく、弱さも諦めもない心でいるということが必要だったのだ。
それが死を愛するということなのではないか。死が、トートが、彼女の創り出したものであったのなら、過去の自分も現在の自分も、そして今この瞬間にも死んでいく自分をも、エリザベート自身が受け入れて愛するということが必要だったのだ。
だから彼女は「扇子」と「傘」を手放して、「自分という死」を受け入れた。

それがエリザベートがトートに「連れていって」と言えた理由なのだ。
「連れていって」と彼女が口にしたことで、エリザベートが歌った、命を自分だけに委ねるという気持ちを捨てた訳でもあきらめた訳でもなかったのだ。その、最初に彼女が歌った『私だけに』の歌詞を載せておこう。

『♪ 私だけに』


嫌よ おとなしいお妃なんて なれない 可愛い人形なんて
あなたのものじゃないの この私は

細いロープ手繰って登るの スリルに耐えて 世界見下ろす
冒険の旅に出る 私だけ

義務を押し付けられたら 出て行くわ私
捕まえるというのなら 飛び出してゆくわ

鳥のように 解き放たれて 光目指し 夜空飛び立つ
でも見失わない 私だけは

嫌よ 人目に晒されるなど 話す相手 私が選ぶ
誰のものでもない この私は

ありのままの私は 宮殿にはいない
誰にも束縛されず 自由に生きるの

たとえ王家に嫁いだ身でも 命だけは 預けはしない
私が命 委ねる それは 私だけに 私に

 

彼女は死を愛するに至った。トートを受け入れて、身を守るための傘を捨て、ルキーニの持つナイフを受け入れた。
そのことだけを見てしまうと悲しいが、この物語は悲しみだけでそれを終わらせてはいない。
死を愛して、死を選んだ。受け入れた。そういうエリザベートを描いたことで、この物語は何を表そうとしたのか。
ミヒャエル・クンツェとエリザベートが作り出したトートという存在は、シシィを、天真爛漫で幻想的で、旅と詩を愛する少女の命を、死の淵から救って世界に返そうとしたのだ。彼女を愛したゆえに。彼女の愛を欲したゆえに。

そして彼女は、ぼくたちの前に、百年もの時を越えて世界に帰ってきた。
彼女の死はすでに起こったことだ。起きたことは覆せないが、死が何をもってして彼女に訪れたのかは描きなおすことが出来る。そうすることで彼女の素顔を、見つけることが出来る。
ぼくたちは、彼女を見つけられただろうか。扇子で隠されてベールに覆われていた彼女の素顔を。自由に憧れて、自由を追い求め続けねばならなかった彼女の素顔を。