『エリザベート』 ③エリザベートの長い旅-3

<トートから見る、エリザベートの「死」>
死後のこの物語によって、エリザベートの自由と愛と名誉は守られたのだろうか?
死によって語り直されるために描かれた物語の中でも、キャラクターは生きている。
トートもまた完璧な存在ではなかった。
エリザベートは死を憎み、死を拒んでいた。
トートは、愛されたいという望みが拒絶されるのを恐れていた。だから彼女の命を奪わなかった。命を奪えばエリザベートは手に入るが、その愛がトートに向けられることはない。
死が彼女に受け入れられるようになるまで、彼は待ち続けたのだ。
彼女の子供であるルドルフはトートによって命を奪われたが、それは彼女の保身のせいでもあった。彼女自身の逃避と不自由によって、側にいることを避けてきてしまった息子の心のなかの闇と、母への愛の渇望を理解することが出来なかった。
エリザベート自身が生にこだわり、死を退け続けていたからこそ、まさか自分の子供が自ら命を投げ出すとは思わなかったのかもしれない。

彼女を追い詰めていったトートにすれば、もはや時はなかった。
このままではエリザベートは死によって寿命を終えてしまう。
それでは彼女は自由にはなれない。
彼女は死を望んではいなかったが、死ぬことで自由になることを望んではいなかっただろうか。


エリザベートにもたらされた死は、トートの仕掛けた罠などではない。それは救いがたいものを、解放するための物語のかたちだったのだ。
死は擬人化などできない。死のさまざまな側面を背負って、限りある生をもつ人間を愛してしまったトートもまた、万能ではないのだ。
エリザベートの生きた愛を欲して、彼女を黄泉の国から地上に帰し、命を返した。トートは自らに、エリザベートに対しては全能ではいられないという束縛を課したのだ。
だから彼はエリザベートによって創り出された『死』であるが、けして死を司る冷酷な死神などではありえなかった。

 

エリザベートの「自由」と「命」>
だがエリザベートもまた自身のその束縛によって、息子の死に際して一度は死を望んだがそれをトートに拒まれて辛い心のまま生き残ることを科されてしまう。
自分自身が自分の束縛になってしまったならば、自分を愛することで自分を解放することと、自分の死を受け入れて自分を自分から解放することはとても近い場所にあるようになるのかもしれない。

死が自分を待っている、という彼女のフランツへの告白はそれを暗示していた。
そして彼女は1898年9月10日を迎える。
その時、彼女は「連れて行って」とトートに言った。
彼女は束縛から自分を解放したのだ。

自分を自分から解放するとはどういうことか?
束縛をすてて自分を受け入れる。死に瀕した自分さえも受け入れるということだ。
死を前にしても、どこにでもゆける自由な自分の魂を手にいれるのだ。
これが彼女自身の得た死の価値だったならば、よかったと思う。

自由を欲することも、欲している間は不自由であるのだ。不自由に支配され束縛されている。自由を求めることからさえも自由になる、という生きざまが彼女のたどり着いた旅のはてだとしたら。
自分からの束縛からも、欲求と適応との解離の苦しみからも、不慮の死による無念からすらも飛び越えて。
終わるときなど来ない誇り高い愛につつまれて、自由になった彼女の魂は安らかに旅立ったのだ。
うつくしい愛と死の輪舞を踊りながら。

 

<ロンドの最後に>
その最後の昇天で、エリザベートが自分を抱きしめていたのだとしたら?
彼女は彼女自身を取り戻し、一緒にゆくトートは彼女が作り出した彼女自身のエネルギーなのだとしたら?
彼女はひとりで行ってしまう。自分を愛し、受け入れて、彼女は自分を抱きしめてひとりでいってしまうのだ。
それは悲しすぎるのではないか、という未練のような思いが湧いた。
だが、そうではないのだ。
そこで歌がリプライズされるのだ。

「♪愛と死の輪舞曲」
返してあげよう その命を そのときあなたは 僕を忘れ去る
あなたの愛を勝ちうるまで 追いかけよう
どこまでも追いかけてゆこう 愛と死の輪舞曲

最後に夫であるフランツがせり上がりから現れて、此岸から彼岸へと、歌いながらエリザベートを追いかけるのだ。
今までずっと、エリザベートとトートだけが交わしていた愛の歌を、初めてフランツが彼女にむけて歌う。命を返そう、と。忘れ去られても、その愛を勝ち得るまで、追いかけようと誓うのだ。
そこでこの長い物語は終わる。

フランツが愛と死の輪舞曲を歌い上げることで、エリザベートの物語は何度でも誇り高く蘇る。
そしてきっとぼくたちの前に、エリザベートはまた姿を現すのだ。
いつになるかはわからないが、これから先、何度でも。気まぐれに、自由に、彼女の望むままに。