今年の観劇メモ

1.花組.ポーの一族

2.月組.バッディ、カンパニー

3.星組.アナザーワールド、キラールージュ

4.雪組.凱旋門、ガートボニータ

5.宙組.天河、シトラスの風

6.大劇場.エリザベート

7.サンファン、キラールージュ

8.メサイア、beautiful Garden

9.エリザベート

10.ジゴロ、エキサイター

11.デライトホリディ

12.白鷺の城、異人たち

13.マイフェアレディ

14.On your feet

 

以上は劇場で見る機会に恵まれたもの。

 

お借りして見たもの

春の雪、ベルばら、ロミオとジュリエット、1789

神々の土地、愛と革命の日々、不滅の棘

サンクチュアリ、双頭の鷲、はいからさんが通る


鼠小僧、オーシャンズ11

 

スカステで見たもの

ドクトルジバゴ、スカピン、かもめ、金色の砂漠、雪華抄、ひかりふる路、白夜の誓い、Phoenix

宝塚夢眩、トラファルガー、、

 

それでポーの一族を見ながら年を越すことにする。来年もいい年にしよう。

 

 

『エリザベート』 ③エリザベートの長い旅-3

<トートから見る、エリザベートの「死」>
死後のこの物語によって、エリザベートの自由と愛と名誉は守られたのだろうか?
死によって語り直されるために描かれた物語の中でも、キャラクターは生きている。
トートもまた完璧な存在ではなかった。
エリザベートは死を憎み、死を拒んでいた。
トートは、愛されたいという望みが拒絶されるのを恐れていた。だから彼女の命を奪わなかった。命を奪えばエリザベートは手に入るが、その愛がトートに向けられることはない。
死が彼女に受け入れられるようになるまで、彼は待ち続けたのだ。
彼女の子供であるルドルフはトートによって命を奪われたが、それは彼女の保身のせいでもあった。彼女自身の逃避と不自由によって、側にいることを避けてきてしまった息子の心のなかの闇と、母への愛の渇望を理解することが出来なかった。
エリザベート自身が生にこだわり、死を退け続けていたからこそ、まさか自分の子供が自ら命を投げ出すとは思わなかったのかもしれない。

彼女を追い詰めていったトートにすれば、もはや時はなかった。
このままではエリザベートは死によって寿命を終えてしまう。
それでは彼女は自由にはなれない。
彼女は死を望んではいなかったが、死ぬことで自由になることを望んではいなかっただろうか。


エリザベートにもたらされた死は、トートの仕掛けた罠などではない。それは救いがたいものを、解放するための物語のかたちだったのだ。
死は擬人化などできない。死のさまざまな側面を背負って、限りある生をもつ人間を愛してしまったトートもまた、万能ではないのだ。
エリザベートの生きた愛を欲して、彼女を黄泉の国から地上に帰し、命を返した。トートは自らに、エリザベートに対しては全能ではいられないという束縛を課したのだ。
だから彼はエリザベートによって創り出された『死』であるが、けして死を司る冷酷な死神などではありえなかった。

 

エリザベートの「自由」と「命」>
だがエリザベートもまた自身のその束縛によって、息子の死に際して一度は死を望んだがそれをトートに拒まれて辛い心のまま生き残ることを科されてしまう。
自分自身が自分の束縛になってしまったならば、自分を愛することで自分を解放することと、自分の死を受け入れて自分を自分から解放することはとても近い場所にあるようになるのかもしれない。

死が自分を待っている、という彼女のフランツへの告白はそれを暗示していた。
そして彼女は1898年9月10日を迎える。
その時、彼女は「連れて行って」とトートに言った。
彼女は束縛から自分を解放したのだ。

自分を自分から解放するとはどういうことか?
束縛をすてて自分を受け入れる。死に瀕した自分さえも受け入れるということだ。
死を前にしても、どこにでもゆける自由な自分の魂を手にいれるのだ。
これが彼女自身の得た死の価値だったならば、よかったと思う。

自由を欲することも、欲している間は不自由であるのだ。不自由に支配され束縛されている。自由を求めることからさえも自由になる、という生きざまが彼女のたどり着いた旅のはてだとしたら。
自分からの束縛からも、欲求と適応との解離の苦しみからも、不慮の死による無念からすらも飛び越えて。
終わるときなど来ない誇り高い愛につつまれて、自由になった彼女の魂は安らかに旅立ったのだ。
うつくしい愛と死の輪舞を踊りながら。

 

<ロンドの最後に>
その最後の昇天で、エリザベートが自分を抱きしめていたのだとしたら?
彼女は彼女自身を取り戻し、一緒にゆくトートは彼女が作り出した彼女自身のエネルギーなのだとしたら?
彼女はひとりで行ってしまう。自分を愛し、受け入れて、彼女は自分を抱きしめてひとりでいってしまうのだ。
それは悲しすぎるのではないか、という未練のような思いが湧いた。
だが、そうではないのだ。
そこで歌がリプライズされるのだ。

「♪愛と死の輪舞曲」
返してあげよう その命を そのときあなたは 僕を忘れ去る
あなたの愛を勝ちうるまで 追いかけよう
どこまでも追いかけてゆこう 愛と死の輪舞曲

最後に夫であるフランツがせり上がりから現れて、此岸から彼岸へと、歌いながらエリザベートを追いかけるのだ。
今までずっと、エリザベートとトートだけが交わしていた愛の歌を、初めてフランツが彼女にむけて歌う。命を返そう、と。忘れ去られても、その愛を勝ち得るまで、追いかけようと誓うのだ。
そこでこの長い物語は終わる。

フランツが愛と死の輪舞曲を歌い上げることで、エリザベートの物語は何度でも誇り高く蘇る。
そしてきっとぼくたちの前に、エリザベートはまた姿を現すのだ。
いつになるかはわからないが、これから先、何度でも。気まぐれに、自由に、彼女の望むままに。

『エリザベート』 ③エリザベートの長い旅-2

<「連れて行って」という言葉の意味>
エリザベートは、幼いころから天真爛漫だった。詩が好きで、狩りが好きで、旅が好きな、夢見がちで聡明な少女だった。その奔放さが皇帝フランツに愛されるきっかけになったのだ。
だがエリザベートは王家に嫁いでから、その性格が変わっていった。姑のゾフィーに奪われた自分の生活と自分の子供を取り戻すためには、力強くならなければいけなかった。そのために政治に介入し、自分の美しさを武器にして影響力を持とうとした。それでも王宮のなかでの自由は得られず、ハンガリーや外の世界を旅する自由を求めるようになっていったのだ。
そのためには自分の弱味を誰にも見せられなかった。皇帝にすら、自分の味方になるかゾフィーの味方につくかを選ばせて、取引をせねば自分が生き残れなかった。
エリザベートという王妃はけして誰かに自分を「連れていって」とお願いしたりはしなかった。自分の力で、行きたい場所へ行くために、考えて行動し、そして本当に王宮を飛び出したのだ。


だが本来の彼女はどうだっただろうか?

エリザベートは昔から「ここではないどこかに行きたいから、私も連れていってほしい」という気持ちをもっていた。幼い頃から父についていき、旅や冒険をしたいとずっと思っていたのだ。それは劇中の幼いエリザベートが歌う歌からもよく分かる。

「♪パパみたいに」
パパ、一緒に連れていってよ パパの趣味は全部好き
夢を詩に書きとめ 馬術の競争 パパみたいに なりたい

今日は木登りは禁止なの 綱渡りの練習も

弟たちとはサーカスごっこができる

どうして連れて行ってくれないの? 外国に旅するのね
自由に生きたい ジプシーのように
気まぐれに 望むまま パパみたいに 生きたい

これは最初に彼女が歌う歌だ。メロディは奔放で明るいが、歌詞には彼女の心の寂しさが透けてみえる。

父親の好きだった旅は貴族社会の社交からの逃避でもあった。彼は親戚付き合いが嫌いで、幼いエリザベートはそれをよく知っていた。
エリザベートは父親の旅にいつも同行をねだっていたが、王家に嫁いでからはそんなことは出来なくなってしまった。
「連れて行って」と言えなくなってしまったその変化は、幼さからの成長ではなく、王宮で生き残るための適応だったのだ。
ここではないどこかに行きたい、自分だけではゆけないから誰かに連れていってもらいたい。
窮屈さを嫌って自由を愛するエリザベートは、父親と似た者同士だった。
だがそんな望みは、王宮のなかの世界では認められることはなかった。誰かに許可をもらってそうすることが出来ないのなら、許可などいらないくらいに自分が強くならなければいけない。娘の育児や息子の教育も、何年もかかって自分の方針で行わせることが出来るようになったように。
自由に憧れていたシシィが、自由を追い求めるエリザベートになっていく。だが実際は、自由を求めていたはずなのに、その過程で束縛が増えていくのだ。

だからこそエリザベートはトートによって本来の自分を取り戻そうとしていたのではないか。王家に嫁いで険しい道のりを生き残ってきた、自分の悲しみが消えなくとも、幼い頃の自由奔放なシシィと今のエリザベートが死のまえに、和合できるように望んだのではないか。

そのためには死を受け入れる心に後悔がなく、弱さも諦めもない心でいるということが必要だったのだ。
それが死を愛するということなのではないか。死が、トートが、彼女の創り出したものであったのなら、過去の自分も現在の自分も、そして今この瞬間にも死んでいく自分をも、エリザベート自身が受け入れて愛するということが必要だったのだ。
だから彼女は「扇子」と「傘」を手放して、「自分という死」を受け入れた。

それがエリザベートがトートに「連れていって」と言えた理由なのだ。
「連れていって」と彼女が口にしたことで、エリザベートが歌った、命を自分だけに委ねるという気持ちを捨てた訳でもあきらめた訳でもなかったのだ。その、最初に彼女が歌った『私だけに』の歌詞を載せておこう。

『♪ 私だけに』


嫌よ おとなしいお妃なんて なれない 可愛い人形なんて
あなたのものじゃないの この私は

細いロープ手繰って登るの スリルに耐えて 世界見下ろす
冒険の旅に出る 私だけ

義務を押し付けられたら 出て行くわ私
捕まえるというのなら 飛び出してゆくわ

鳥のように 解き放たれて 光目指し 夜空飛び立つ
でも見失わない 私だけは

嫌よ 人目に晒されるなど 話す相手 私が選ぶ
誰のものでもない この私は

ありのままの私は 宮殿にはいない
誰にも束縛されず 自由に生きるの

たとえ王家に嫁いだ身でも 命だけは 預けはしない
私が命 委ねる それは 私だけに 私に

 

彼女は死を愛するに至った。トートを受け入れて、身を守るための傘を捨て、ルキーニの持つナイフを受け入れた。
そのことだけを見てしまうと悲しいが、この物語は悲しみだけでそれを終わらせてはいない。
死を愛して、死を選んだ。受け入れた。そういうエリザベートを描いたことで、この物語は何を表そうとしたのか。
ミヒャエル・クンツェとエリザベートが作り出したトートという存在は、シシィを、天真爛漫で幻想的で、旅と詩を愛する少女の命を、死の淵から救って世界に返そうとしたのだ。彼女を愛したゆえに。彼女の愛を欲したゆえに。

そして彼女は、ぼくたちの前に、百年もの時を越えて世界に帰ってきた。
彼女の死はすでに起こったことだ。起きたことは覆せないが、死が何をもってして彼女に訪れたのかは描きなおすことが出来る。そうすることで彼女の素顔を、見つけることが出来る。
ぼくたちは、彼女を見つけられただろうか。扇子で隠されてベールに覆われていた彼女の素顔を。自由に憧れて、自由を追い求め続けねばならなかった彼女の素顔を。

『エリザベート』 ③エリザベートの長い旅-1

9月の3・4日と大劇場で『エリザベート』を見る機会に恵まれた。台風の混乱はあったけれども、素晴らしい舞台だった。初めて見る大劇場でのエリザベートは、芝居も群舞も歌もすべての迫力がすごかった。

そのあと10月1日に川崎のライブビューイングで、大劇場の千秋楽を見た。退団の挨拶やサヨナラショーにも触れることが出来て、温かい気持ちになれた。

色々なエリザベートを見たことで、続きを書こうと思えた。

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『♪ 私だけに』(リプライズ)


今こそお前を黄泉の世界へ迎えよう(トート)


連れていって 闇の彼方 遠くへ
自由な魂 安らげる場所へ (エリザベート)


二人きりで泳いで渡ろうよ
愛という名前の深い湖を(トート)


涙 笑い 悲しみ 苦しみ
長い旅路の果てに掴んだ (エリザベート)


けして終わる時など来ない
あなたの愛
おまえの愛  (エリザベート・トート)

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舞台の最後に歌われる、エリザベートとトートの愛の歌だ。彼女はトートを受け入れて、トートはまるで恋人へ語りかけるような口調となり、二人は優しく歌い合う。

リプライズされる前の『♪私だけに』とは全く違った歌になっていた。

<「死は逃げ場ではない」の意味>
トートはエリザベートを殺したりはしなかったが、彼がルキーニを通じて彼女に死をもたらしたことは間違いない。
だがエリザベートは死を望んだのか?
もたらされた死を、彼女は最後に受け入れていたように見えた。

エリザベートがルキーニに刺される寸前、手に持っていた「傘」を彼女自ら手放したように見えた。
その前の病院の場面では、素顔を隠すための、口と歯を隠すための、真っ黒な扇子も手放している。
そして破れて向こうが透けて見えるヴィンディッシュ嬢の白い扇子と、自分の黒い扇子を取り替えているのだ。

女王という役割と孤独を、扇子にこめてーーーー自分が女王だと妄想するヴィンディッシュ嬢を抱きしめてやり、逆に彼女に涙を拭われた。
命だけは渡さないという自由への執着を、傘にこめてーーーーそれを手放し、もたらされた死を拒もうとはしなかった。

素顔を隠すための仮面のような扇子と、ナイフに襲われた時に唯一身を守れたはずの手にしていた傘のそれぞれを、エリザベートは手放したのだ。そして、その身に受け入れるかのように、ルキーニのナイフが吸い込まれていった。
彼女は「死」を受け入れたのだ。

 

エリザベートが絶望から死を望んだ場面では、逆にトートは彼女を拒否している。
『まだあなたは私を愛していない、死は逃げ場ではない』と言って。
逃げ場ではないとしたら、トートとエリザベートにとって「死」とはなんなのか?

リプライズされた歌のなかでエリザベートはトートに、「連れていって」と言った。
死へーーあなたとともに、湖の彼岸へと。
この選択は、彼女が最初に歌った言葉とは一見して矛盾があるように見える。
彼女は「自分の命を委ねるのは、自分にだけだ」と歌のなかで誓っていたからだ。
そうやって孤独のなかでもトートの誘惑を拒み続けて、美貌をみがくことを武器にして生き残ってきた。
それが最後には、トートにその身と意志を明け渡してしまったのか?
ぼくはそのことをずっと考えていた。
それが悲劇なのか?そうではないだろう。
そんな説明では、美しいあの時間を言葉にできていない。

 

「トート=死という存在も、きっとエリザベートが自分で創り出したものだと思うんです」

(エリザベート役・愛希れいか)

人生に苦しみを感じたとき、それが自分の力ではどうしようもない悲しみを伴うとき、誰にでも死を希求してしまうことはあるだろう。
エリザベートもそうだった。だが彼女は死に強く惹かれながらも、生きたいと願っていた。息子の死にまみえるまでは。
ヨーゼフと言葉を交わしながら、同じベンチに座らずにいたエリザベートは、すでに自分を待っている存在を予見していた。
そして死が、トートが自分を待っているのだと感じていた。それでもウィーンには帰らずに旅を続けた。
死の待つ港への旅行きを、彼女の選択とよんでもよいのだろう。死に際しての心構えというものは、どんな不慮の死であっても、その心構えがあったことが選択をしたと認められる意思になる。

彼女は死を避けなかった。恐れてはいなかった。自分の進む先に死があることを知っていた。だから、自分から命を誰かに委ねたりすることはなかった。
彼女の選択は『私だけに』という、孤独の中にも生命と自由をみつけて自分の欲望を肯定する、力強い歌の魅力をけっして損なうものではなかったとぼくは思う。

 

 

③ポーの一族について / 瀬戸かずや 『FOCUS ON』

ポーの一族で瀬戸さんは、ポーツネル男爵役の際に『エドガーの孤独を際立たせるにはどうすればいいか』を念頭に演じていたという。

 

ぼくはエドガーを見ていて、心底から彼が孤独だと思った。仙名彩世さん演じるシーラも、瀬戸さん演じる男爵も、エドガーの義理の両親なのに自分たちのことしか考えていないように見えたからだ。

男爵夫妻は、自分たちがバンパネラだと見破られないことと、一族の仲間を増やし人間を安全に狩ることだけを考えて行動している。だからエドガーと男爵夫妻の間には家族としての愛情などはなく、旅の道連れとしての規律や協力が求められる関係しかないように見えた。それなのに、男爵とシーラの二人は心から愛し合って結婚し、バンパネラになっている。二人にだけはお互いへの深い愛情と信頼がしっかりとある。

一方でエドガーには愛する相手がいない。唯一エドガーが家族と呼べるのは妹のメリーベルだけだった。

そのメリーベルも『もういない』のだ。彼女がどこへ行ってしまったか、誰にもわからないのだ。

だからエドガーは愛のない世界でさまようことになる。それを見ているぼくらは、その孤独と悲しみに引き寄せられていく。

 

劇中で、ポーツネル男爵は手傷を負ったシーラをかばって、逃走中に人間に撃たれてしまう。シーラも混乱のなかで人間に撃たれてしまう。彼女は死の間際に男爵を逃がそうとするが、男爵はその言葉をきかず、シーラの後を追うようにして塵となって消える。

二人は互いを抱きしめあい、婚姻の際の誓いの言葉を交わしながら消えてゆく。

ともに、命果てるまで 

ともに、塵となるまで

彼らの出番はそのようにして終わる。

その結末は、原作とはまったく違うものだ。

エドガーの孤独を際立たせる』

そう見えるように演じていた瀬戸さんがいたお陰で、ぼくは『ポーの一族』に深く引き込まれていたのだと知って感動した。

お芝居に、こんなにも奥行きがあることを初めて知れてよかった。

 

 

 

 

③『ベター・コール・ソウル』

ぼくは何度も読み返す小説がいくつかあるが、その中に小野不由美さんの『十二国記』がある。

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そのシリーズの「華胥の夢」という短編集に『乗月』という話がある。王が罪に潔癖すぎて傾いていった国の話だ。国の名は芳国。王の命運は国の浮沈と共にある。その王である仲韃は正義にこだわるあまり罪に厳罰で報いる法を重んじすぎた。その定めは激しさを増していき、微罪にも死罰を与えるようになってついには革命が起こる。王位を簒奪して民を救った能吏は、古くから王の忠臣で、道を踏み外してゆく王の姿を心から憂うほどだった。

その仲韃という王に、チャックはよく似ているとぼくは思った。
チャックは弁護士として『法を守ること』が最も正しい行いだと信じている。そこには容赦がない。それを他者も理解すべきだと思っている。もしも理解出来なくてもいつか正しく理解できると信じている。そのための犠牲をいくら払ったとしても、それが正しいのだと心底信じている。そこが仲韃とよく似ているのだ。
チャックにとっては法が最も正しいのだ。だから、その法を軽んじて利益をとろうとする弟のジミーが弁護士として活躍するなど悪夢のようだっただろう。チャックはジミーの弁護士としての活躍や栄達を徹底的に妨害し、その一方でジミーにはそれを隠し続けてきた。ジミーは、チャックに裏切られたことへの憎しみから発作的に彼を陥れるために罪の一線をこえてしまう。そしてまた、それを知ったチャックは弟の弁護士資格を剥奪しようと企みにかかる。憎苦はぐるぐると巡る。めまいがする。お互いに傷付けあって終わりがなくなる。

ぼくはそんなチャックの辿る軌跡に衝撃をうけた。彼の語る希望はまやかしだ。頑迷な希望を信じ続ける方が楽で、独りよがりになっていくからだ。
それはチャックに限らない。人は自分の怒りと思い込みを正すことが出来なかったらどうなるだろうか。思い込みとすら分かっていない、自分の『正しさ』と誰かの『考え方』がちがう道にあった時に、それを受け入れられるかどうかが、すべてなのだと思う。
彼の病気の悪化はそこから始まってしまった。自分の希望とはちがう存在の弟を、受け入れるような苦しい道の中にしか、彼が生き残れる筋道はなかったのかも知れない。
間違いを認めて、自分を見つめ直す。正しいと思ってしてきたことを、振り返ってみる。今まで積み上げてきた自分の人生が壊れる恐怖とこそ戦うのだ。
チャックはそれをするべきだった。
どうしてもそれが出来なければ、勇気がなくて戦うことが出来なければ。自分の信じ込んだ妄想に捕まって取り殺されてしまうことになる。それはあまりにも無惨で苦しい最期をもたらすことになる。そんなチャックの姿を見て、ぼくは恐ろしくなった。

ぼくはそうはならない。なりたくはない。
チャックは友人を失い、仕事を引退に追い込まれ、唯一残された弟のジミーとも袂を分かつ。孤独の中で無理がたたって限界が訪れた。妄想に囚われてしまうのだ。その場面を思い返すと胸が苦しくなった。彼が苦しげに喘ぎ、じっと座り込んだまま、虚ろな顔で『机を蹴り続ける』音が忘れられない。
ぼくはそんな風になりたくないと、心底思った。誰にもそうなって欲しくはないと思った。

最終話で、ジミーは言う。

『兄貴はおれをクズだと思ってる。それは変えようがない。おれには何も言えないよ』

そうして物語が終わる。声は静かな口調だが悲鳴のような言葉だった。ぼくにはそう聞こえた。

ジミーとチャック達が最後に語り合う、9話のタイトルは「ピメント」。日本語ではピーマン。英語のスラングとしては、「中身の無い話」。丸々1話がそうだ。何度も見返すとわかる。これはあまりにも、的確な、タイトルすぎると誰もが思うだろう。そしてジミーは何度も思い出し、考えるだろう。でもそれは意味がないことだ。苦しみが増えるだけだ。そうでなくなるために、最終話がある。だがそれは救いにはならない。ジミーは自分の意志で、変わるだけだ。

そしてドラマはシーズン2に続くのだ。兄弟の戦いはこの時点ではまだ始まったばかりだが、ぼくのレビューは終わりにする。そしてスピンオフ元の『ブレイキングバッド』も、見てみることにする。

②『ベター・コール・ソウル』

このドラマは『ブレイキング・バッド』のスピンオフで、ソウル・グッドマンと呼ばれる弁護士の話だ。ぼくは『ブレイキング・バッド』を知らなかったが何も問題なく最初から楽しめた。前知識は必要ない。

『ベター・コール・ソウル』はシーズン4まであり、現在も毎週配信が続いている。
その第1話は物語の舞台と人物の紹介を丹念に描いている。

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グッドマンことジミー・マッギル、『滑りのジミー』はイリノイ州シセロのチンピラだった。詐欺師まがいの生活から兄のチャックの助けで更生し、いまはニューメキシコアルバカーキで弁護士をしている。アルバカーキ市は禁酒法時代にアル・カポネ一党の本拠地があった歴史的な街だ。ギャングが暗躍して麻薬がはびこり、犯罪が横行している。
そんな街でジミーは粗末な個人事務所を構えているが、クライアントは一人もいない。彼は口は達者だが信がないのだ。
仕事も金も冴えもないし、自分のことしか考えていない。ずる賢くよく口が回るが、幸か不幸か悪巧みは成功しない。人をだまし嘘をついて、公選弁護で口を糊する日々にうんざりしている。
そんなクズのような彼が、2話目から変わり始める。
彼の悪巧みは失敗し、共犯者は死にかけるがジミーは違法な『弁護』と口車で、体を張ってギャングから彼らの命を救う。
そのことにジミーは誇りとやりがいを、自分の仕事のなかにある光を見出だしたようだった。
そして3話、4話と周囲の人物の紹介がつづく。ジミーの兄のチャックはエリートで大きな弁護士事務所の代表だったが、物語の冒頭では休職して自宅療養中だ。その特殊な病状と苦境が話の中で浮き彫りになる。5話では定年退職した元市警のマイクが、ジミーに深く関わってくる。積み重ねられるいくつものエピソードが丁寧な伏線になっていく。6話の警官殺しの話は、1本の映画のようなハードな物語で見応えがあった。
そして、ぼくは7話まで見てこのドラマに感動した。
病気が悪化したチャックは激痛に耐えながら、リハビリを始める。何年も仕事をしながら自分の介護をしてくれた弟のジミーに、宣言するように語りかける。

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『私は全てを失いかけた。治す方法を見つけなければダメだ。じっと座り込んでこのまま朽ち果てる気はない。そんな人生でいいはずがない。必ず仕事に復帰する。人の役に立てる人間にもどるんだ』

 力強い言葉には希望が感じられた。 
ジミーは、そんな兄を尊敬すると喜んでいた。そして気遣いを感じさせないよう兄にある手助けをする。
その手助けが復活劇につながっていく。8話では大企業の不正を発見したジミーとそのサポートで老練さと威厳を見せるチャックのコンビが生まれる。
その展開はこの物語が希望にあふれていくもののように見せてくれた。

チャックは厳格な人間だ。弁護士として大成してみなに慕われている。名声も信頼もある。病によって苦境に立たされてもそれは変わらない。
元詐欺師の『できの悪い弟』に対しても厳格さは変わらない。それどころかもっと厳しい。病気の自分にすらそうだったのだから。
第9話で、この物語の本筋が初めて暴露される。ある事件の弁護をめぐってチャックの本心が明かされる。
仕事に復帰したチャックは弟に繰り返し言う。『お前は本物じゃない』と。『私と同じ弁護士などではない』と。その表情は冷たく、怒りに歪み、別人に見えた。法を軽んじる弟の態度を許せずにずっと秘密裏に何年間も彼を裏切っていた。それが正しい行為だと、心から信じながら。
ぼくはまんまと騙されていた。これは二人の兄弟の心をえぐる、苦しみと憎しみの物語だ。安易な希望などまやかしだった。そういうものが打ち砕かれた先にこの『ベター・コール・ソウル』は進んでいく。