『エリザベート』②トートはなぜエリザベートを殺さなかったのか?

『トートはなぜエリザベートを殺さなかったのか?』

 表題を考えるために、すこし別の話をさせてもらいたい。
ぼくはこのことを考えていたときに小説家の増田俊也氏の記した、木村政彦夫妻の話を思い出していた。それは実在する、戦前から戦後にかけて武道の世界で最強の座を貫きつづけた男とその妻の話だった。
ぼくは木村が妻に発したという『これでいいよね。これでよかったよね』という言葉に涙した。
それは晩年に妻との散歩中にぽつりと出た言葉だった。

最強の武道家だった『鬼の木村』は恥を忍んで生き延びつづけていた。
絶頂期のたった一度の敗北のあと、彼はずっと自身の死を望み、対戦相手に死をもたらすことを望み続けていた。その力は十分に持っていた木村だったが、それを選ばなかった。
裏切りによる不名誉な敗北を雪辱する機会を、木村はずっと探していた。
だがその機会はある事件により永遠に失われたように見えた。
それでも木村は年老いてなお体を鍛えつづけた。異常な鍛練によって肉体の衰えを退け続けていた。
だがあるとき妻にその言葉をなげかけた。『これでよかったよね?』という自分の人生に対する伴侶への言葉は彼の涙とともに発せられたが、それは問いではなかったのだろう。

彼は苦しんでいた。たった一度の敗北を許せずに、そこから自由になれなかった。再戦が叶わなかったからである。だから自分の強さを証明するためには、愛する弟子たちを最強とするべく鍛えあげる人生を選び続けるしかなかった。彼の子供同然である弟子たちは柔道で日本一を取り、日の目を見ない地下格闘技でも勝ち続けた。北京オリンピックで日本人唯一の柔道金メダリストの選手もまた、彼の孫弟子である。
だがそうやって、彼は自由になれただろうか。
彼は強さにこだわることが、自分自身の強さを証明し続けることが、自分を保って生きのびることだと知っていた。
あの敗北後に刺客や戦いによって彼が殺されていたなら、それは彼が解放されるということと同義だったように思う。
けれども、本気の彼に勝てる人間など当時の地上に誰一人としていなかった。それが誇張ではなく間違いない事実であるということをぼくらは増田氏の本によって知ることが出来ている。これは木村政彦の名誉を回復し、彼の無念を解放し、彼を自由にしたということ以外の何物でもないはずだ。

増田氏の語る、入念な調査と執念の取材はそれを確かなものにして後世に伝える物語になった。それを成し遂げられたのは、木村政彦という偉大な存在への愛ゆえだったとしか言いようがない
夫妻のエピソードは『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのかという本に載っている。その表題の意は、その書を読めばわかるのだ

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そして本題に戻る。エリザベートの死後、彼女の自由への希求と、名誉の回復と束縛からの解放は、木村政彦と同じようになされようとしたのではないだろうか?
トートの手によって。つまりは『死』というものの語る物語によって。
エリザベート』とは、死の手先となった暗殺犯ルキーニによる陳述と死者たちの証言によって構成される黄泉の世界の公判による物語だ。そのことに注目して見れば、これが彼女の『死』の真実を究明するための物語であることがわかる。

『トートがなぜエリザベートを殺さなかったのか』とぼくは書いた。
トートは彼女を殺したのか?
いや、殺さなかった。
死によって彼女を解放した。
この二つの言葉はなにが違うのか。

自分の死による価値を誰かに奪われることを「殺される」というのならば。
自分の死による価値を、自分自身が得ることが出来たならそれは自分の人生を「生きた」と言えるのではないだろうか。
彼女は彼女自身の死を受け入れていたように見えた。それは最後にエリザベートが歌った言葉で明らかだ。だが、なぜ「死」を受け入れられたのだろうか。あれほど自分の命を誰にも委ねない、と強く誓っていた彼女だったのに。そこに疑問が残るのだ。

トートは彼女に死をもたらしたが、少なくとも彼女の命である自由を奪うことはしなかった。
彼女の存在を支配するのではなく、生きた彼女の愛を欲したのだ。
これはとても難しいことだ。なぜこんな難題をこの物語は抱えたのだろうか。
はたして生きたまま、逃避や諦めからではなく、人間が死を愛して受け入れることなど出来るのだろうか?

ぼくに分かるのは、この難題に挑んだ物語の作者ミヒャエル・クンツェは、歴史において理不尽に見えるエリザベートの不慮の死をそのように語り直そうとしたのだということだ。
そのためには、彼女は『死』に愛されて、『死』をただしく愛さねば、それを乗り越えられなかったとされたのだ。悲運の死、狂人の凶行、アナーキストテロリズム、そういった言葉では彼女の死を語らないと作者は決めたからこそこの物語がいまここに在るのだ。
そうして当時の彼女にたいする、奇人だとか変人だとか自分勝手な亡国の浪費家だとかいう不名誉なレッテルを変えようとしたのだ。
トートという『死』の手を借りて、エリザベートの人生を語り直させる試みによって。

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この『エリザベートという物語は苦難のなかで自由を欲する人間の生きざまを見せるという価値をもたらしてくれる。
その価値は現代でも清らかで誇り高い勇気を見る人たちに与え続けてくれるだろう。そしてぼくらはその試みが見事に成功していることに感動する。

だがそれは本当に、ぼくらに感動を与えてくれるための物語の都合などではなかったのだろうか?
彼女は自分の死によって、本当に束縛から放たれて自由になれたのだろうか?

次回につづく