さくら、紅かなめ

今日は天気がよかった。暖かくて気持ちの良い陽気だったので昼飯のあと家の前の道で写真を撮って遊んでいた。
一眼で桜を撮っていると、子連れのお母さんや老夫婦や買い物帰りのおばさんたちが歩きながら同じ桜をスマホでぱしゃりと撮っていく。
ぼくが撮りはじめる前は、歩いてる人たちは誰もスマホを取り出して道端の桜を撮ろうとなんてしなかった。それが20分くらいのあいだに10人近くが桜を写していっただろうか。
誰かが撮れば、みんな写真を撮ることを思い出すのだろう。カメラを持っていることを思い出すのだろう。
それをきっと家族や友達に見せるのだ。
ぼくは何となく鼻が高い気持ちになって、沢山シャッターを押した。

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マルチアスペクトといって、一度きりのシャッターで色んな四角の形をした写真が四枚ほど撮れる機能をよく使っている。
撮影後の編集はめったにしない。
ぱっと見返して収まりがいい写真をパソコンに残すだけで、よく撮れた写真でも四枚の中でだいたい一枚しか選ばない。
いや、それは逆で、形のちがう四枚の中に一枚くらいはけっこういいやつがあるという感じだ。余白やバランスが、半分偶然のおかげで、ぐっとよくなった写真を見つけるとうれしくなる。
自分の視点や感情が、写真にあらためて気付かされるのもいい。
花を見るぼくの目が、意外とロマンチックな写真を撮っていたりする。

 

『ポーの一族』(再見) ゴンドラでは・・・

当日券を並んで買って、2階席から見た。実を言えばこの2日前に7時から並んでも満席だったため、早朝から並び直したのだ。その日はBlue-rayの発売日だったのでそれだけ買って帰宅した。

 

注目は第二幕の 第12場「時を超えて」ゴンドラ上のシーンだ。

Blu-rayではエドガーはアランと共に、静かな笑みを浮かべていた。
ぼくが今日、劇場で目にしたのは、悲しげな表情で歌うエドガーだった。
リーベルの行き先をアランに問う声も、劇場では寂しげな表情で語られた。

収録は宝塚劇場公演で1月19日。ぼくが見たのは東京劇場で3月22日。
『思いを遂げて伴侶を得たエドガー』という表現が、より悲しみをたたえたものに変わっていったように見える。
原作のエドガーの魅力と明日海りおの表現力を考えれば、時を超えていく二人が笑顔を見せる前者もいい。
だが後者を見てしまうと、もっと良く感じる。一度きりのこの舞台でだけ、エドガーと出会うぼくらにはその方が良く見える。それがわかってよかった。
劇場で生で見る恩恵は、気付きをもたらしてくれることだ。医師クリフォードとエドガーの問答も、色々な示唆を感じたので後日まとめたい。

 

 

『まえだや』 コロッケ定食


横浜駅地下街の端っこに、『まえだや』という定食屋さんがある。カウンター7席ほどのこじんまりしたお店だ。
そこのコロッケ定食がとてもおいしい。
俵型に丸められたコロッケがふたつと小判型のメンチがひとつ。衣はあげたてでサクサク、コロッケは中のいもがねっとりとホクホクで、ほおばると豊かな味がする。
メンチもいい。肉と玉ねぎがよく練りあわさっていて、かぶりつくとジューシーな甘味がこぼれてくる。
ソースをかければご飯がすすむし、かけなくてもそのまんまでうまいのだ。
お米もかならず炊きたてで、一度もはずれたことはない。定食屋さんでたまにご飯がはずれると泣きたくなるが、『まえだや』ではついぞそんな目にあったことはない。
コロッケをあつあつのご飯の上でふたつに割って、中のあんに醤油をたらす。2~3滴でいい。
ごはんの湯気に醤油とコロッケの香りがふわっと広がる。たまらずにその香りをほおばるように茶碗をかきこむ。
他にもキャベツが新鮮でシャキシャキだとか、お味噌汁の具がバリエーション豊富だとか、いい所はいっぱいあるが、細かいけど大事なところに女将さんの目が行き届いていて居心地が良いのだ。自分の中にいくつもの小さな『好き』が重ねられていって、そこに信頼感がうまれる。いい店だなあとしみじみ思いながら飯を食う。

 

野毛で立ち飲み屋の『福田フライ』に行ってきて『まえだや』を思い出した。
いい飲み屋は正解がたくさんあるけど、いい定食屋さんは貴重だなと思う。

「弟の夫」 NHKプレミアムドラマ

NHKオンデマンドで『弟の夫』を見ている。
タイトルの通り、主人公の弥一(佐藤隆太)のもとにカナダから、死んだ弟の『夫』であるマイク(把瑠都・元大関)が日本に訪ねてくる、というお話だ。

このドラマの画面は木と肌の色調が豊かな表現で描かれている。
その肌を、彼らの顔を、古い日本家屋の障子とガラス戸を透かして暖かい陽光がいつも照らしている。どの場面でも柔らかい春の陽射しは、誰にでも等しく降り注いでいる。それはとても丁寧なつくりで、見ていると彼らの表情が好きになる。
物語の魅力やリアルさや説得力は、こういった理想をもった場面設計から生まれるのだとぼくは信じている。

台所のテーブルや居間のちゃぶ台をはさんで、日常の風景の中でマイクと弥一の会話が交わされる。
マイクの口調は穏やかでゆっくりだ。相手の言葉を遮らず、声高に叫ぶような言葉はひとつもない。
弥一の迷いと自問は、とても静かだ。
それは弥一が過去に死んだ弟に語りかけ、将来の娘に語りかけているからだ。
「そこ」にむけて語るときに、相手の顔がわかって語るときに、ぼくらは自分の正しさを喧伝したり相手を傷付けるための言葉を叫んだりはしない。

このドラマの登場人物たちは、権利を主張したりしないし差別を指弾したりもしない。まず見つめるべきは自分の心の中なのだ。


田亀源五郎の原作漫画は4巻で完結していて書店でも手にはいる。ドラマではカットされているエピソード(寿司の天ぷら、わさびソフトクリームの回など)もあるのでオススメだ。 


ドラマは全3話で、2話目まで見た感触ではとてもいい。特に把瑠都さんの演技が穏やかで真摯で、親しみが持てる。「出来ますよ!」は心地よいセリフだった。なぜか彼の言葉がときおり地元の栃木弁に聞こえる時があるのだ。
3話目は3月18日に放映なので、いまから楽しみにしている。

 

 

3/22 追記 

最終話まで視聴した。3週に渡ったこのドラマの放映と、マイクが弥一家にいた3週間が同じものだったことに、夏菜のセリフで気付かされた。

ラストはドラマオリジナルの展開で、優しくて暖かいifのストーリーになっていた。

弥一が、公園で泣いている夏菜に駆け寄るシーンでは、佐藤隆太がこの役でほんとに良かったなと思えた。いい役者、いい原作、いい脚本の素晴らしいドラマでした。

アウトサイダー 異邦人(2018.Net Flix)

『夜に散歩しないかね?』藤田和日郎 

からくりサーカス、アニメ化発表とのことで。

 

1954年の大阪が舞台だ。地元のヤクザ組織に、出所したばかりのアメリカ兵ニック(ジャレド・レト)が奇縁によって紛れ込むところから物語が始まる。ニックは刑務所で同房だった清(浅野忠信)を助けたことから組に世話になるが、戦後の日本でアメリカ人のヤクザというのは異物であり異形の存在だった。

前半は画面の色彩が綺麗で、飽きずに見ていられる。昔の日本の情景なのに異国のように見えるのだ。見ているぼくが異邦人になったように感じてくる。どぎついのに褪せた色合いの繁華街のピンクネオンが画面に反射する。
ニックが白松組の盃を受けて組の一員として身内になると、その不思議な色彩は影をひそめる。逆に画面の中には陰影が際立つようになっていく。

オリエンタルに踏みはずさずに、いまは古い戦後の歓楽街の路地裏を葛飾応為のような光と影の表現で描いてゆく。美術も音もつくりこまれていて盛り上がる。
この監督が攻殻機動隊を撮っていたら面白い街並みになっただろう。

場面を満たす光の色使いが面白いのがこの映画の特徴だ。シーンの意味をセリフ以外で表現するために光が役割を担っている。
出所後のニックの宿屋の赤色灯、二人の車内のカクテル光、彫り師の部屋の明り、路地裏の闇にうかぶ頼りない提灯、それらのシーンに言葉はないが光が感情を浮かび上がらせて、役者の顔に陰影をつける。

とくに息を呑むほど美しかったのはニックが刺青を彫るシーンだった。
澄んだ青色の混じった光に映える、彫りの深い彼の横顔にむけてカメラが流れる。その顔越しに映る筋肉質な背中に鯉を彫る。
引かれる墨の稜線は彼の顎のラインを照らす光と同じ藍色だ。
そのシーンでは清の妹、美由を演じる忽那汐里が魅力的な表情をみせる。
彼女の背中にもまた美しい刺青がすでに彫られている。そのことを清は知らない。
油っぽい偽物にはまるで見えない、彼女の滑らかな肌の上に描かれた二匹の鯉の刺青にニックの手がゆっくりと触れる。
ついため息がでて、その鯉のうろこに触れてみたくなる。
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映画のなかの『濡れ場においてけぼりにされる問題』はクリアされている。
アウトサイダーでは繊細な刺青のディテールを、肌の質感に訴えるように丹念に描写している。その肌に、割れ物を扱うように大事そうに触れるニックの手付きだけで、性的な描写に頼らなくても二人の関係性がよく理解できるからだ。
これはいわゆるフェチズムともちがう。
二人の寝床に曙光がさしこみ、背中の刺青を輝かせている。その質感描写が優れているのは、やはり光のコントロールが綿密にされているということなのだ。

それを物語っているのが『歩く』シーンの多さだ。
木造の廊下を、緑深い山の中を、暗がりの路地裏を、様々な薄明かりに反射されながら男たちが歩き続ける。歩く姿を正面から撮る。その顔に映る陰影を撮り続ける。
歩く道は迷路のように複雑で、曲がりくねっていて先が見えない。
歩くシーンに意味をもたせて、執拗に繰り返し撮るこの監督は信頼できる語り手だろう。若頭の椎名桔平は歩行を見事に演じている。ニックは歩きながら影を深くしている。男たちの歩く様を眺めているうちに、自分もアウトサイダーな夜の道に紛れ込んでいくようだった。

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光と影のあたる場所ーー社会や共同体の裏道を歩くのがヤクザだとすれば、その顔に射す光と影こそが彼らの人生を彩るのだろう。彼らに射す光は享楽で、影は苦難だ。
白松の組長は面子にこだわり死地にむかう。決断する際に泳いだ目をカメラは撮している。だから最後の申し出に乗ってしまう。彼らの面に影がさした時の表情を、まざまざとぼくらは見せつけられる。
それは暴力でも血飛沫でも表現できない、光と影によってうつろうものだ。
刺青の出来映えと歩き方、表情の陰影を見れば彼らの貫禄がわかるのだ。
だから後半のアクションは重要ではない。この映画ではそこをさらりと流す。長々した愁嘆場もない。ただのバイオレンスに頼る映画ではないからだ。
ジャンル的ヤクザ映画の中のアウトサイダー、それがこの映画の立ち位置だった。
役者の表情に見応えのある、いい映画を見た。

 

椎名桔平は今後、禿げてもきっと格好いいだろうな。ジャレド・レトも本当にいい顔をしている。茫洋としたうつろな目付きなのに色気がある。ダラス・バイヤーズクラブの女役だったと知って驚きとうなずきが半々。
ダラスもレト目当てで見て損がないのでオススメ。

ジム&アンディ

 ジムキャリーという男の話をしよう。
『マスク』や『トゥルーマンショー』でおなじみの皆大好きあのジムキャリーだ。

『ジム&アンディ』という映画は、アンディ・カウフマンの生涯を描いた映画『マン・オン・ザ・ムーン』の主演をジムキャリーが演じていく舞台裏のドキュメンタリーだ。
カウフマンは『変わり者の天才コメディアン』で、アメリカでは『なりきり芸の第一人者』と賞賛される伝説的な人物だった。
このドキュメンタリーを重層的に面白くしているのは、舞台裏の映像は20年前のもので(当時は公開許可が降りずにお蔵入りになっていた)その映像を現在のジムキャリーが見ながらインタビューに答えるという構造になっていることだ。
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人が何かにのめり込む時に、自分をコントロールすることなど出来るのだろうか。
ジムキャリーは、自分が心底憧れた天才を完璧に演じようとして、強い不安と緊張を抱えながら撮影に臨んでいた。彼は撮影以外でも四六時中アンディでいることをやめなかった。
『ジム&アンディ』の中でも、彼の徹底したなりきり演技には危なっかしさが見えた。彼自身が演技を忘れて、暴走してしまうのだ。スタッフが止めようとしても外からの力で暴走は止まらない。
暴れまわってセットを壊し、監督に暴言を吐き、酔っぱらって車を乗り回す(私道なのでセーフ)。
ジムキャリーがなりきったアンディは常に自分が実在するかのように喋り、アクセルを全開にして注目を集める。
なぜそこまで演技にのめり込むのか?
インタビューは疑問に答える彼を捉えようとする。
だがジムキャリーは見違えるように年を取り、まるで仙人のようにやせこけて髭をはやし、静かに落ち着いた様子でいる。20年前のハイテンションでエキセントリックな面影はどこにもない。思慮深く丁寧にインタビューに答えている。

ぼくには、彼が父親の話をする場面にだけ本人の顔が見えていたように思えた
この映画の中でそこだけが、彼は誰かを演じていなかった。
『マスク』の公開当時、90年代に成功の絶頂にいた彼が父親に残したメッセージを劇中でぜひ見てほしい。
その行為は桁外れで狂っていて演技じみているけれど、そうせずにはいられなかったといういびつな愛情に満ちている。
そのパフォーマンスはまるで彼そのものだ。
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一方でインタビューに答えている仙人のような老人はとても真剣だが、それゆえにもうアンディとは別人に見える。
なんならジムキャリーとも別人に見える。
エネルギッシュで陽気に見えていた、ぼくらを笑わせてくれたジムキャリーはもういないのだ。
老人の告白を聞いていると、それでもいいじゃないかと思えてくる。
別人から話を聞いても仕方がない。
彼はすでに暴走することをやめている。
そのことがさびしくて、ほっとする。

『マン・オン・ザ・ムーン』の撮影が終わったあと、また自分が何者か、何をしたいのか、分からなくなってしまったと老人は言った。自分を見失って塞ぎ込んだ時期になった。悲しい自分に逆戻りしてしまったと。
きっと見失われた方のジムキャリーは、アンディと共にどこかでのんびりビールでも飲んでいることだろう
彼はもう誰にも、自分の中に価値や才能がないことを見抜かれる心配をしなくてもいい。弱さや悩みをマスコミに暴露されて、破滅する恐怖を感じなくていい。もう夜が眠れないほどの緊張を感じなくてもいいのだ。
永遠におどけ続け、ふざけ続けて、好きなだけ観客を笑わせ続けることが出来るだろう。
映画の中の彼には心配事など何もないように見える。そういう姿を演じきり、やりきったからだ。
だからぼくらの知っているジムキャリーは、映画の中にだけ生きている。

それはこのインタビューの何気ない冒頭ですでに語られていた。
彼にカメラをむけた監督が問いかける。
もう撮り始めてもいいかな?と。
彼は答える。『もう映画は始まっているよ、人生は映画の中の真実にしかない』
その通りだった。仙人のような老人の言葉は見た目どおり正しい。それとも彼は仙人になりきっているのか?
わからない。そうだとしても全く見抜けない。そうだとしても、そこに違いはない。
彼からは諦観と死の匂いがするが、すべてやりきって望みがないから満ち足りた表情でいられるのだ。
そこで監督から質問される。
望みがなくなると、どうなるんだ?と。

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その答えが気になるならあなたはこの映画を見るべきだ。一度ならず自分を見失っていた彼が、欲望についてどう答えたか。ジムキャリーが好きだったぼくは呆然としてしまった。

このドキュメンタリーは『彼の演じた映画』の終わりを映す、長いエピローグだったのだ。

彼の『映画』は、彼の『演技』はいつ始まって終りを迎えたのか。
それは、ジム・キャリーが自分自身のエゴを車の後部座席に放り投げて、アンディになるためのオーディションに挑んだ時から、すでに始まっていたのだ。

死んでしまった憧れの人を――心からその人のことを理解したいと思った誰かになりきって、自分では止められなくなるくらいまでに演じようとしたその時から。

ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』

 

きっかけは実写化のポスターを目にしたからだった。役者さんがポーの一族の主人公であるエドガーに本当にそっくりで驚いた。まるで漫画の中から抜け出してきたように見えた。演じたのは花組のトップスターで明日海りおさんという方。
当日、宝塚は初めてだったので期待と不安を抱えたまま銀座の劇場にむかった。
結論からいえば、不安は杞憂だった。
写真よりも実物の方がもっと本物のように見えたからだ。

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一幕目の終わりは一同が集まるホテルのロビーが舞台だった。1870年代のイギリスは新興の港町、ブラックプール。そのホテルの華やかなパーティーに集ったのは心ない人々ばかりだった。あるのは欲望と打算だけ。婚約者を裏切って女漁りをやめない医者、地元の名士の遺児であるアランに自分の娘をあてがおうとする父親、アランに取り入ろうとする娘とその家族たち。盛大なその婚約パーティーは虚飾に満ちたものだった。
バンパネラであるシーラもポーツネル男爵も、そんな人間たちを咎めるどころか獲物としてしか見ていない。妹のメリーベルだけがエドガーの側にいるが、幼くしてバンパネラになった彼女は永遠に成長することができず、人の愛を知るすべがない。

エドガーは妹を守るために、アランを標的に定めようとするが、誰かに自分の正体がばれてしまえばたちまち命を落とす危険との隣合わせに絶望し、心を閉ざしていた。

アランにもエドガーにも理解者はいなかった。彼らは孤独に追い詰められていた。
暗い思惑が渦巻くきらびやかな夜の中にたった一人でエドガーは嘆く。
『愛のない世界に生きねばならないのか』
オーケストラが響いて、嘆きが歌になる。
歌うエドガーは儚げで、美しかった。
愛のない虚飾の世界に、エドガーは確かに存在していた。
そこに彼は実在したのだ。

彼の歌う孤独と悲しみが、憐れみをもってぼくの目に映し出された。
ぼくはエドガーの身にこれから起こることを思い出して、泣いていた。
それは永遠の別れと永遠の彷徨いだ。
だがその悲しみにも意味はあったのだと舞台に立つエドガーに気付かされた。

彼の身を案じ、彼の悲しみを憐れんで泣くぼくは幸福だと。

そのせいで、幕間になっても涙がとまらなかった。

時をこえて彷徨うバンパネラ達の物語は、まさしく40年の時をこえて宝塚によって語り直された。舞台をつくりあげた人たち全員がエドガーたちのことを深く理解しているだろう。
そうでなければこんなにも完璧に演じられるわけがない。姿かたちが完璧なだけではなく心まで理解されてはじめてエドガーはそこに存在できた。観客であるぼくたちにもその理解が演技や表現となって、胸に痛いほど伝わってくる。

ある一人の人間の苦悩やかなしみというものがこれほど多くの人に理解され共感されるのならば、ぼくたち一人ひとりの抱えるかたちのちがうそれぞれのかなしみも、誰にも理解されなくとも和らぐことがあるのではないだろうか。
その役目を物語というものが担っていてくれるのではないだろうか。

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萩尾望都の物語になぜ自分は引き込まれるのだろう。
バルバラ異界』『残酷な神が支配する』『トーマの心臓』そして『ポーの一族』。
どの作品も、自分の居場所を求めて自分の傷を見つめる人々が主人公だ。
貪るようにその素晴らしい作品たちを読みながら、いつか誰かに自分が肯定され、理解されることをぼくは欲していた。
当然のことながら、本を読むだけでは誰にも理解などされはしない。自分を主張し、現実を見なければ。ゲームやマンガやファンタジーは逃避なのだから。

でも本当にそうだろうか?

自分が欲しても得られないものを、「現実の世界で得ている」エドガーが舞台の上にいる。彼の嘆きや問いは、時空を越えて今ぼくたちに届いている。
ぼくはそのことが嬉しかった。エドガーに、心のなかで声をかけたかった。
キャラクターを現実の中に見ようとするのはおかしいことかもしれない。
でも物語があるのは、まさにそのためなのだとぼくは思う。現実の中にこそ物語を見るのだ。
読み手を温める毛布になるために、何度でもマッチ売りの少女は自らを凍えさせるように。悲劇的な物語が存在する意味が、どこかに必ずあるように。

だが物語を信じることそれ自体は、苦悩の解消とは別物だ。
昇華はするだろう。成仏もするだろう。でも自分の苦悩は自分で向き合うしかない。
でもそれはつらい。自分の弱さを直視できない。どうしても自分が信じられなかったぼくは、物語というものを信じることで、ぼくにとっての信仰としたのだ。

だが、キャラクターや物語が何のために存在するのかという、ぼくの信仰の課題は成ってしまった。

舞台上で嘆くエドガーがぼくの目の前にいる。目の前に完璧に実在している彼に、なぜ君はそこにいるんだい?と問えるだろうか。

彼もただ、存在していていいのだ。
フィクション――「そらごと」が現実に「まこと」であると、無邪気にずっと信じていたくて、それがはじめてぼくの目の前で実現されるところを見た。
ポーの一族』は、この物語を現実に実現させるための多くの努力の果てしなさの中に、時をこえて成ったのだ。その得難い幸運に巡り会えたことに、感謝したい気持ちになった。この物語に出会えた幸福を。エドガーに出会えた幸福を。

暖かい胸中とは裏腹に舞台では悲劇がつづいていく。それが避けようがない悲劇だと知っている。それはどこにいてもぼくたちにも起こりうると知っている。ぼくはその悲劇の結末を気にするよりも、演じられているのがこの物語でよかったと思い続けていた。

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舞台の終幕は、1950年代のギムナジウム、スイスの寄宿学校が選ばれた。時をこえてさまよう彼らがそこに転校してきた場面からはじまった。
バンパネラの存在を揶揄して歌う生徒たちの問いに、うそもごまかしも選ばずにエドガーは事実を述べる。
『ああ、そうだ。ぼくにはメリーベルという妹がいたよ』
自分はバンパネラだという告白に近いその言葉を聞いて気圧された生徒は、偶然って不思議だね、と口ごもりながら離れていく。
エドガーはそれには答えずアランの手をとって門へと進む。
そして二人は門をくぐる前に振り返り、こちらを見る。
ぼくたちを見る。
彼らの過去を見てきたぼくたちを。

二人は過去を振り返るのだ。
出会いは偶然などではなかったと示すように。
二人は時をこえて生き続けるのだ。

その彼らの着ている制服の色は、薄い青緑色だった。
うつろいやすい儚さを嘆く、露草色とも呼ばれる花色だ。
これからもずっと、彼らは誰にも別れを告げずに時を巡りうつろい続けるのだろう。

その色が、彼らを知るのは巡る季節と過去だけだと最後にぼくたちに知らせてくれるようだった。
露草の花色の制服を着て、門からまた旅立とうとする彼らはまだ過去を見つめている。
まだぼくたちを見つめている。時をこえて彷徨い続けるという物語が本当にいま、奇跡的にここに姿を見せていて、そして終幕と共に消えていく。オーケストラが鳴り、ゆっくりと照明が落ちてゆく。
その色も闇の中に消えてゆく。二人とともにその花色が消えてゆく。

美しい夢のような時間が、現実にあったのだという満足感とともに。

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舞台が終わって、大変に幸福な気持ちで帰路についた。何日かかけて家でパンフレットを読み返しながらこのブログを書きあげた。それで最後のギムナジウムの制服のデザインは、シュロッターベッツのものだと気がついた。あれは『トーマの心臓』の舞台になるギムナジウムの制服だ。あの制服は、ユリスモールとエーリクの着る服の色でもあったのだ。なんてこった、とただただ感心して脱帽してその幸せをかみしめる。