①ポーの一族について

これから、ポーの一族の話をしていきたいと思います。漫画と舞台の両方を見て、新しく感じたことや考えたことが中心になると思います。語りたいことが多くあるので、テーマやジャンル別に何回かに渡って書いてみるつもりです。
どこから読んでも分かるように書くつもりなので、漫画や物語、舞台はもちろん萩尾先生の作品に興味がある方に読んでもらえたら嬉しく思います。

まず第1回は『バンパネラ』について、です。

『我らはこの世ならぬもの
神が造りしものに非ず
生きとし生けるものすべて
命果てれば屍となる
されど我らは
塵となりて風に舞う』

これはポーの一族・宝塚舞台での歌の一節です。
ポーツネル男爵の妻になるシーラを一族に迎える儀式の際に歌われました。
ポーの一族大老であるキング・ポーの主題歌でもあります。我ら、とはキング・ポーを長とするポーの一族のことです。
この歌詞(原作の漫画にもある台詞)について考えてみたいと思います。

『神が造りしもの』
古くからキリスト教には、人間は神さまに作られたものだという共通の認識があります。
ポーの一族の舞台は様々な時代に渡るヨーロッパの土地ですが、そこでは神さまに造られないで存在するものは、この世ならぬものは、怪物や異端者、はぐれ者として見られてしまいます。

では『神さまに造られていないもの』というのはどういう意味なのでしょうか?
その言葉の意味は2つあると思います。
1つはキリスト教を信じていないもの、神さまの恩寵の外にあるものを意味します。時代によっては迫害の対象になってきました。
物語上でポーツネル男爵が『異端』という言葉で言及しているように、バンパネラという呼称にはこの意味が多分に含まれています。
もう1つの意味は、神さまが造ったのではなく『人間の手によって造られたもの』ということです。
自然や神話以外の人工物、キリスト教への信仰をもたない『物語』などを指すでしょう。この『物語』キリスト教以前の土着信仰や各地の民話と密接に結び付いています。

その2つの意味の重なる存在、それがバンパネラポーの一族の正体ではないかと思います。
注目は後者です。
連作であるポーの一族は、作者の類い稀れなストーリーテリングのセンスによって『時をこえて彷徨うバンパネラ伝説』という語り口が、人が作るフィクション/『物語ることについての物語』という形に繋がるように表現されているのです。

神から見放された異端者たち一族を、神ならぬ人の手によって生み出された物語の存在する意味になぞらえるようにして語られていることが、ポーの一族の数多くある魅力のひとつだと思います。

ではバンパネラポーの一族は誰の手によって生み出された存在なのか。
エドガーは誰の手によって生み出された存在なのか。

次回はその辺りを考えてみたいと思います。

『Road to Zepp 』 草ケ谷 遥海(アルバム)


友人に誘われて草ケ谷遥海さんのワンマンライブに行ってきた。彼女はテレビの新人発掘などの番組で何度も入賞したことのある、若手の女性歌手だ。
お台場のZeppダイバーシティの会場はほぼ満員で、19時半の開演間際に着くと二階の関係者席に通された。

友人とぼくは、むかし一緒に学生バンドを組んでいた仲だ。
彼は進学後も音楽学校に通い『ゴーショーグン』や『モスピーダ』などで有名な羽岡先生に学んで某事務所からいくつかのCDを出していた。その関係で今回のライブに招待されて、ぼくはそのご相伴に預かったのだ。
久々に友人たちと飲みに行く前の楽しいイベント、というつもりで参加したのだが。

彼女の開口一番、エネルギッシュでパワフルなその歌声にぼくはがつんとやられた。 かと思えば、ジャズでソウルフルな艶っぽい歌声に頭がくらくらし、リズミカルなベースの振動がぼくの体を包んで揺らした。
まるで原始的な祝祭のようだった。
祝詞をあげてかみさまを降ろすかのような心地のよい絶叫と歌唱がつづく。一体どこからそんな声がでてるんだろうと驚くべき豊かな響きが歌になり、会場の空間をすみずみまで満たしていく。大音量なのに耳許で優しく歌われているような声に、全身が包まれる不思議な体験をした。
人間の喉はしゃべるよりもさきに歌うために存在した、という話を彼女を見ていて本気で信じたくなった。

プロより上手い学生、という期待の新人が今日からプロになるという。そこまでの道のりは平坦ではなかったのだろう。
情感が溢れて涙をみせた曲間のMCに、魅力的で快活な印象を受けた。

今日は生で間近で聞くほんもののパワフルな歌手のライブは、こんなにも素晴らしい体験なのかと教えてもらった気がする。
帰り際にCDまで頂いた。友人に感謝だ。
そのお礼になにもお返し出来ないなら、せめて応援してみたいと初めて思える人に出会ったような気がしている。またライブがあるなら行ってみたい。今後に注目しよう。

 ・カバー
レイニー・ブルー
listen(ビヨンセ)
I Love you(H.U.B、クリス・ハート)

・オリジナル
DIAMOND
誓い
Dance Dance Dance!

『I Love you』 では二胡の奏者にゲストの方(kiRiko)が来ていたが、歌声と二胡が相乗して素晴らしい曲になっていた。
この方の弾く『菊花台』(作曲:周杰倫)という曲も実にいいのでオススメ。

マンチェスター・バイ・ザ・シー(2017)

過ちをおかした。
そのために死ぬことも出来ない。
苦しくてそのことを乗り越えられない。
だからここにはいられない。

自分が苦しいということを、人に言える。
それすら自分に許してこなかったのだろう。苦しいと思うことすら許される訳がないと思っていたのだろう。
たったひとりで、そう思い込んでいた人間が主人公の映画だった。
自責の念が拭いきれないことは、誰しもあるはずだ。そういう人にぜひ見てほしい映画だと思う。

苦しみを告白すること。
告白する相手がそこにいること。
相手が生きてそばにいること。
ただそれだけがそこにはあって、でもそれが理由にも救いにもならない。それでもいい。

だがそれでも生きる、と言ってしまうのはこの映画からあまりにも離れて、他人事になってしまう。
『ただ傷つきながらそこにいる』
そういう人のそばに佇んで、見守る映画だからだ。
この映画には奇跡はない。死者との邂逅もない。ただ思い出すだけだ。ただ夢を見るだけだ。

夢の中で父親が娘たちと会話するシーンで、ぼくは安堵した。表面の言葉に息が詰まるが、父親が娘たちにそう言えたことがこの映画を形作っている。
監督はやさしい人だろう。苦しみや悲しみに、ただそのそばに佇むようにしてそこにいる人もいると知っているから。許しや救いを欲することが出来ないで、立ちすくんでいる人もいると知っているから。
そういう人にもほんのすこし慈悲と憐れみがもたらされてもいいはずだ。

そうであってよくない理由はなにひとつない。
ちいさな希望がもたらされてもいい。
たとえそれが叶わなくてもいいのだ。
それが悪い理由はどこにもない。この映画を見てそう思った。

エンディングはマンチェスターの冬の景色を見せる。それが終わるとともに映画が終わる。
冬が終わる。その美しい終わり方を見て満足しているぼくがいる。
銃や船やエンジン、家具や部屋に明示されたものの変遷を語ろうかとも最初は思った。だがそれはこの映画には似合わないだろうと、思いとどまって口をつぐむことにする。
この映画は、語れるはずだったさまざまなモチーフに口をつぐんで、ただ見守る優しさを見せた。そのことに敬意をもってぼくも少しでも倣いたいと思う。

シャン・レサン (新馬場)

長い会議と研修のあとに、同僚と軽く一杯という流れになり気になっていたお店に飲みに出かけた。
ガラス戸と木造りの店構えがよくて、ランチはなく夜だけオープンするワインバーのようだった。
八寸のようなつきだしの盛り合わせ、焼きソーセージと、ピザ。ビールを2杯。
ピザは重くない。アルザス地方の郷土ピザ(!)だそうで、長方形に八枚切りの生地は薄くてパリパリの食感だった。具は少なめで、玉ねぎの薄切りと細切りのベーコンが散らしてある。
シンプルなのにそのピザ(フラムクーヘンという)がすごく美味しかったのは、チーズが具材のなかだちをしているからだった。玉ねぎの甘さとベーコンの塩気がミルクの香りのする柔らかいチーズによって、ひとまとまりになっている。繊細なバランスがとれているのに、気取らない料理は好きだ。

このチーズはフロマージュにヨーグルトを混ぜたものだそうで、マスターのオリジナルなのか郷土チーズなのかは分からなかった。ただ、さっぱりとして軽くてうまい。
他にもりんごやバナナを具材にしたフラムクーヘンもあるらしく、味が気になる。
再訪する理由が出来た。

ホルモン北野 (白楽)

白楽の駅から15分ほど歩いて、先輩と3人でホルモン北野に行ってきた。

お通しのポテトサラダはじゃがいもの歯応えがほどよく残っていて、ビールによくあう。
ユッケは玉ねぎのスライスの小山に生のハツが並べられて、その頂上に卵の黄身が鎮座している。甘い醤油だれがかかっていて絶品だった。玉ねぎがきちんとさらされているのか、生なのにまったくえぐみがない。黄身も濃厚でとろりとしていて、このお店は副菜や素材に手を抜いてないと分かって嬉しくなる。
牛テール煮のおろしぽん酢和え。ゆず胡椒と大根おろしが油っこさを中和してさっぱりした食べ応えだった。
盛り合わせはシロ、マルチョウをたれで。ノドブエ、ノドガシラ、牛ホホ、ハチノス、オッパイ、心のこりを塩で。
さらにノドガシラと牛ハツを単品で頼む。
牛ハツはユッケでも食べたけれど、塩で焼くと別次元のうまさだった。
刺身で食べたものより、焼いて食べたものの方が美味しかったホルモンは初めてだ。
ハツの身がぷつん、と噛みきれてその歯応えだけで新鮮さがわかる。
驚いたのはひとくち目だけでなく、その歯応えがぷつん、ぷつん、とひと切れの肉の端っこまで味わえる。噛めば噛むほど肉汁と香りがあふれてきて幸せになれる。
ひと切れの肉の中心と外縁が同じ弾力の柔らかさだなんて信じられなかった。
筋もなく、堅さもなく、臭みもない。
焼いた肉の外側は硬いものだという、当たり前だと思っていた食感の前提がひっくり返された。
いい肉が新鮮で、磨かれた技術によって成形されている。値段も良心的すぎる。
また通いたい店ができた。

マルドゥック・アノニマス3 (ハヤカワ文庫)

少女は言う。「あなたは優しい。沢山の人があなたに助けられたし、わたしもそうだった」手のひらの上の小さな金色のパートナーに向けて。

金色のネズミが答える。「それが『有用性』ってやつだ。俺が廃棄処分されそうになったら、ぜひその言葉を法廷で証言してくれ」あくまでおどけた調子で。

少女は答える。「絶対に言う。あなたがどんなに必要とされている人か、私がみんなに教えてあげる」

 

少女と別れた金色のネズミは、ひとり自責の念にかられる。助けた人間のことよりも、助けられなかった人間のことを考える。

 

有用性などなくても人は生きていていいのだ。

それでも価値はあるのだ、という価値観を守るための戦いに身を投じることだけが自らが存在していい価値を生む。作られた存在である金色のネズミは、自分の存在価値をそう考える。

生まれたものではなく、作られたものだからだ。作られたものには意味があり、価値がある、としなければ生きられないからだ。

有用性。それを課されて、証明し続ける者たちの物語。

ぼくたちは彼らによって、彼らという物語によって、守られているのだ。

だからこれは、ぼくにとって絶対に捨てることのできない、必要な物語だ。

さくら、紅かなめ

今日は天気がよかった。暖かくて気持ちの良い陽気だったので昼飯のあと家の前の道で写真を撮って遊んでいた。
一眼で桜を撮っていると、子連れのお母さんや老夫婦や買い物帰りのおばさんたちが歩きながら同じ桜をスマホでぱしゃりと撮っていく。
ぼくが撮りはじめる前は、歩いてる人たちは誰もスマホを取り出して道端の桜を撮ろうとなんてしなかった。それが20分くらいのあいだに10人近くが桜を写していっただろうか。
誰かが撮れば、みんな写真を撮ることを思い出すのだろう。カメラを持っていることを思い出すのだろう。
それをきっと家族や友達に見せるのだ。
ぼくは何となく鼻が高い気持ちになって、沢山シャッターを押した。

f:id:yasuud:20180330025714j:plain


マルチアスペクトといって、一度きりのシャッターで色んな四角の形をした写真が四枚ほど撮れる機能をよく使っている。
撮影後の編集はめったにしない。
ぱっと見返して収まりがいい写真をパソコンに残すだけで、よく撮れた写真でも四枚の中でだいたい一枚しか選ばない。
いや、それは逆で、形のちがう四枚の中に一枚くらいはけっこういいやつがあるという感じだ。余白やバランスが、半分偶然のおかげで、ぐっとよくなった写真を見つけるとうれしくなる。
自分の視点や感情が、写真にあらためて気付かされるのもいい。
花を見るぼくの目が、意外とロマンチックな写真を撮っていたりする。