②ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年) 

 ご存知名作、ディアハンター。久しぶりに見返してしまったので。
ロバート・デニーロ主演。クリストファー・ウォーケン助演。3時間の大長編です。

ベトナム戦争と帰還兵を描いた映画だといわれているが、いま見てもまったく古びてはいない。

映画の前半は、退屈な田舎街の情景が続く。だが陰のある日常だ。戦争を前にして若いカップルが結婚式をあげていく。漫然と見ていては眠くなってくる。漫然と見ていてはさまざまな示唆を見逃すことになる。静かなシーンを見返したくなるのは優れた映画のひとつの特徴だと思う。
中盤は一転して別の映画のようだ。目の前が血まみれのベトナムの戦場にかわる。激しい戦闘と無惨な拷問、息詰まる逃亡シーン。こんな映画の構造には明らかに意味がある。対比し、思い出させる以上の効果がある。あまりにも変わり果てたものを見せ付けられるなかで、デニーロ演じるマイケルだけが頼りに思えるはずだ。
だが後半は、戦争が終わり街に帰還した男たちを描いていた。
すでにマイケルは言葉をもたない。戦争を語る言葉も持たない。彼は戦争の中に自分の一部を置き去りにしてきてしまったからだ。
その彼が弟にかけようとした言葉はなんだったのか?

それをぜひ映画の中で探してみてほしい。

 またこの作品は、ゴッドファーザーにフレド役で出ていた、ジョン・カザールの数少ない出演作でもある。

①ディア・ハンター(The Deer Hunter 1978年) 

1970年代、ベトナムハノイ米国との戦争の傷跡と混乱が極まる街の無法が、命がけのロシアンルーレットを見世物にする賭博場で臨界点を迎えていた。

『時間がないんだ』
テーブル越しにマイケルが語りかけた。ここから脱出するために目の前の男を迎えにきたのだ。
周囲では命のやりとりに興奮した多くの観衆が野次を飛ばしている。テーブルのそばで立会人が口上を唱えて、観衆を煽りはじめた。立会人は観衆に見せびらかすように大袈裟な身振りで弾丸を込めていく。
拳銃がテーブルに置かれた。
『脱出するんだ、聞いてくれ』
彼――ニッキーはその言葉が届いていないかのように、拳銃をためらわずに自らのこめかみに当てた。
『やめるんだ』
静止もむなしく、ニッキーは平然と引き金をひいた。
かちん、と乾いた音がした。
死線を越えたニッキーの反応は、ただ瞬きをしただけだった。
『くそっ、なぜだ』
観衆は沸いた。賭場は熱狂に満ちている。マイケルは焦っていた。

ニッキーの瞳がこちらを見つめていた。
そこには何の感情も読みとれなかった。
立会人が号令をかけて観衆を黙らせる。
恭しく大袈裟な手つきで、再び拳銃に弾丸を込めた。
薬室は回転しながら銃身に納まり、立会人の手の内で弾がどこに込められたのか見えなくされた。
再び、拳銃がテーブルに置かれた。
ニッキーが拳銃を見ていた。
マイケルを見るときとは違って執着心を露にした険しい目だった。
『これがお前の望みか?これが?』
マイケルは拳銃を握りしめた。
ニッキーは、彼の弟は、引き金を引く瞬間にしか生きていないのだ。生き残ることなどまるで考えていない。
引き金を引く一瞬を得るために、マイケルから銃を奪ってでも自分のこめかみに突きつけかねない。相手が自分の兄だともわかっていないのだ。
ニッキーの魂は奪われてしまった。戦争によって。この命を投げ打つギャンブルによって。
その怒りと哀しみがマイケルの胸に渦巻いた。あまりに不憫だった。
マイケルは銃を自分の頭に突きつけた。
その様子を見たニッキーが急かすように顎をふった。はやくやれ、と。
『・・・愛してるぞ』
絞り出した声は震えていた。
こうしなければ語りかけられない。言葉が届いているのかも分からない。それでも、ニッキーを元に戻してやらなければならない。一人でこんな所に置き去りにしておけない。あの時のように、弟をまた見捨てることなど出来なかった。
指に力をこめる。たまらずに目をつぶる。

かちん、と乾いた音がした。
観衆が沸いた。
息を吐いた。 汗が噴き出していた。周りの騒がしさなどどうでもよかった。
考えなければ。
ニッキーに届く言葉を。
立会人が三度、静寂をもたらした。
銃に弾を込めなおす。
このわずかな静寂の中で。弟は引き金を引く瞬間だけを欲している。ニッキーはそれを求めている。そこに何かが顔を出す。その一瞬に賭けて、マイケルは弟に届く言葉を、語りかけなければならなかった。

②Happy! (2018年 Netflix)

ニックとハッピーは、ブルーのようなスラム街を体現する悪徳との対決をしなければならない。一人では立ち向かえないそれに、二人で立ち向かうための試練を超えていくのが5話と6話のラストシーンだ。その場面を見ると、よごれている心でも清らかに燃えあがれるような気がしてくるのだ。

あるいはこの物語はバディものというよりは寄生ものなのかもしれない。古くはバンパイアハンターD寄生獣幽霊や妖怪を身に宿して力を合わせていくさまざまなストーリーを思い出すからだ。
そうするとニックは何かにとりつかれているということになる。
マルドゥック・シリーズでは、ウフコックというしゃべるネズミが退役軍人ボイルドの失われた良心そのものだったように。ボイルドは虚無にとりつかれていたが、ウフコックとはいいコンビだった。ニックはどうか?

『Happy!』 ――これは幸福を求める一角獣にとりつかれた、死にかけた男の物語である。
誰の、何の幸福なのか?と問うならば、それはニック自身の幸福ではないといえる。
彼は他者を破壊することが得意な自分を知悉していて、暴力の中に身をおいている時の方が日常生活よりも生き生きとしている。だから自分のために幸福を築き上げようとは望みもしていない。
彼が追っているその幸福は、誘拐されてしまった子供の本来得るはずだったものなのだ。
子供の幸福を求めることが、自分自身を放棄して血まみれの道で暴れ狂っていた男の責務だったとすれば。
最後のシーンでそれが果たせてよかったのかもしれない。

ぼくはこのドラマのエンディングを見ながら『インターステラーを思い出していた。
ぼくはニックが滑稽で痛々しくて狂っているようにみえると言った。でもその姿は、それほどぼくらの生活と違いはないのかもしれない。そこが外宇宙でもスラム街でも、日本の小さな街の中でも。
それは紛れもなく自分ではない他者のためにーー子どものために奔走する、父親の姿に見えたからだ。

①Happy! (2018年 Netflix)

よごれた大人が童心にかえるには、アル中になるか死にかけるしかない。
悔い改めればなんとかなるというわけではなく、そうするとイマジナリーフレンド(Imaginary friend)ーー「if」が見えるようになるということだ。

『Happy! 』はおなじみNetflixオリジナルのドラマシリーズで、シーズンが公開されると全話通して見ることができる。むかしの地上波のドラマのように続きが気になって来週まで待ちきれない、ってことはなくなったけれど代わりにぼくらの睡眠時間がどんどんなくなっていく。


このドラマは新鮮なバディ(相棒)ものだ。
ニックとハッピーのコンビが子どもの誘拐事件を追っていくストーリーになっている。
ただし主人公の一人が、想像上の友達ーー幼い子どもが作り上げた「if」であるハッピーは、喋る小さな青いユニコーンだ。すぐにおどけるお調子者だが自分を生み出した少女(誘拐の被害者)を救出するために、理想的な相手だったニックに必死で取り憑いた。「if」はニック以外の人間には声も聞こえず姿も見えない存在だ。
そのニックは元警官で、いまはアル中で殺し屋をしている。野蛮で暴力的だが、卑しい人間ではない。金で悪人を殺しても自分が生き延びることに関心がないかのように、酒を浴び続けてぼろぼろの体と心臓を痛めつけている。「if」であるハッピーに取り憑かれるまでは、コカインとギャンブルが好物で人を殴ることが得意なーー早く死にたいと願っているどこにでもいる中年男だった。

物語のなかでニックは「if」を見て、その声に耳を傾け、「if」と話をして行動するようになる。
「if」の助言に従って東に行ってはマフィアを半殺しにし、西に行っては敵に捕まって拷問される。行く先々でトラブルを起こし、ものをぶち壊し、事態が複雑になり、流血と傷が増えていく。
他人にはその「if」はまったく見えないから、その様は滑稽で痛々しくて狂っているようにみえる。
スプラッタでコメディなタッチのシーンも多いし、風刺的でシュールな笑いも随所にある。たとえば舞台であるスラム街のマフィアのボスに『ブルー』という個性的なキャラクターがいる。その『ブルー』の妹には、リアリティー番組のTVクルー達が密着していて毎週その番組が彼らの世界のテレビで放送されているのだ。
その『ブルー』の自身を取り巻く状況への絶望と達観ぶりが、フレッシュな言葉の暴力描写となって視聴者のナナメ上をいく。それが陳腐にならず、共感も出来るけれど、好きにはなれないキャラクターを作り上げていて『ブルー』は矛盾と恐怖を感じられるあたらしい悪役になっている。


『これは私が7日もかけて作った世界ではない』

第3話の『ブルー』のセリフは果てしない。そしてこの男が街の悪徳の体現だと視聴者は気付くのだ。

②トーマの心臓

傷つけられた肉体と魂が、愛することも愛されることも諦めていた。

そんなユリスモールの中でトーマの言葉がこだまする。

『それでは死んだまま生きるようではないか。さみしすぎるではないか』

自分の苦痛の扱いに他人が抗議することほど鼻白むことはない。

そんな抗議は心に届かない。言葉では心に届かない。

『抗議ではないよ。きみの死んだ心を生き返らせたくて、ぼくの心臓を捧げることをいとわないという宣言だ』

馬鹿馬鹿しいと、取り合わなかった。徹底的にユリスモールは彼を無視した。送られた手紙はすべて読まずに破り捨てた。

だが、宣言して捧げられた心は地に落ちてから舞い上がり、誰にも見えなくなった。
それは事故死だとされた。誰もその真意に気付かなかった。
愛する人の傷が、けっして暴露されたりしないようにトーマもそれを望んだ。

ユリスモールは心を閉ざした。自分の傷だけでなく、トーマの死も心の水面に沈めた。彼の死は自分のせいか?そんな馬鹿なことがあるものか。考えるのはよそう。彼は足を滑らせて橋から落ちたのだ。

そんな中でエーリクが転校してくる。
エーリクはずけずけと、遠慮などなくユリスモールの心に土足で入り込む。事情を知らないからだ。何もかも知らないのにトーマの顔でユリスモールに、彼の死の理由を尋ねてくる。これは何かの罰だろうか。
彼をもう一度殺してやりたくなる。
そんな激しい感情をぶつけてしまう。
エーリクはユリスモールの態度に疑問をいだく。関心をもつ。

反発しながらも心を惹かれていく。そして、そして――。
ある本に挟まれて、見つかることを待っていたトーマのメッセージをエーリクが見つけることになる。

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少年達にさまざまなことが起こる。その出来事はひとりでには起こらない。誰かのそばで、それが起こったことが大切なのだ。
友人の死、家族の死、愛と暴力、エスケープ。

出来事のなかで彼らは少しずつ心を通わせることが出来るかもしれない。少年の日のなかで愛すべき人がそばにいたこと。愛すべき人のそばにいること。
相手を理解したいという思いと相手に理解して欲しいという願いが重なって、自分をとらえて離さない。そしてその願望が相手を追い詰めることになる。あるいは追い詰められなければ答えが出せないこともある。

ユリスモールの告白は彼を解放することが出来ただろうか。告白そのものが答えであるようにぼくには思えた。

誰になにをすべきかなど、トーマに似ても似つかないぼくには、理解するきっかけすら掴めないままでいる。それでも、だからこそ繰り返し読んでしまう物語。傑作です。

①トーマの心臓

トーマの心臓」は、1974年発表の萩尾望都先生の漫画作品です。
舞台はドイツのシュロッターベッツ。
ギムナジウム、寄宿学校で少年達の送る集団生活が描かれる。
主人公は愛する母親を名前で呼ぶように育てられた、奔放な少年であるエーリク。母の再婚により転校してくるところから物語は始まる。
規律に反発する問題児のエーリクは固く心を閉ざした優等生のユリスモールと相部屋になる。
そのユリスモールにはある噂がつきまとっていた。

萩尾先生の数ある代表作のひとつ。
自身のエッセイでは『(トーマの心臓では)愛と死、一瞬と永遠を突き詰めて描こうとした』と語っている。宝塚の「ポーの一族」のおかげでまた読み返したので感想とあらすじの紹介を。

もう一人の主人公であるユリスモールは傷を抱えていて、それをひた隠して生きている。彼は勉学を怠らず後輩の面倒も見て、教師の評判もいい。
だが転校してきたエーリクにだけは憎しみのような激しい感情をぶつけてしまう。
なぜか。
自殺したトーマという下級生に彼がそっくりだからだ。トーマの面影を彼に見て、トーマの言葉をいやでも思いだすからだ。
その言葉はユリスモールの傷を知っていた。
ユリスモールは過去を悔いている。お前はなぜそんなことをした、と自責する。自分の心のなかには表に出せない感情の嵐が渦巻いている。
傷を受け入れてしまった/自ら傷を望んだ/傷に従わされた/そんな自分を、自分だけが知っている。誰にも知られてはいけないその苦しみを、封印して生きると決めていた。
だからもう二度と心を動かされないようにしよう、と決めていた。静かに、平穏に。

そのためにもう誰にも関心を持たず、誰も愛さない。

自分でも、それが傷になるとは思わなかったのだから。

②ポーの一族について

 第2回 「バンパネラ」は何のために存在するのか?

前回は「バンパネラポーの一族は誰の手によって生み出された存在なのか」という問いで終わりました。

それを考えるために、ポーの一族の物語の骨子を確認してみましょう。
『捨て子』である主人公エドガーは、バンパネラたちに保護されて暮らしていましたが彼らの秘儀を垣間見てしまい、なかば無理やりに彼らの一族にされてしまいます。
一族の長であるキング・ポーの血を与えられたエドガーは、永遠の命による孤独と流転を強いられることになります。

ここでエドガーを萩尾望都という作者に、バンパネラをSFやファンタジーの物語として置き替えてみましょう。作者自身のエッセイでも語っているとおり、彼女は漫画を書くことを禁止され否定される家庭で育てられながら、隠れてずっと漫画を書き続けていたそうです。有名になったあとでもその生業を続けることが、理解されない家族との軋轢になっていました。
エドガーは言うなれば、作者の分身でもありSFやファンタジーなどの物語そのものを表す存在です。
つまり、彼らは当然ながら意識的に作者によって生み出された物語の中の一人として存在するのです。
また、萩尾先生を漫画家の道にいざなったのは数多くの物語を作り出した偉大な先人たちであるとも言えます。
その理由は、エドガーとアランというポーの一族の主人公である二人の名前の並びそのものを見れば明らかです。

物語に話を戻しましょう。

作者の分身や理想でもあるエドガーは、物語の終盤で医師で女好きというきわめて現実的な人間であるクリフォードと対峙します。
そこでエドガーはクリフォードから『消え去れ、悪霊。お前たちは実在しない』と言われます。
エドガーが返す台詞はこうです。
『あなたがたよりずっと長い時間を、実在している』
エドガーは物語の立場を代弁するかのように答えます。物語自体は現実には存在しないが、それは現代よりはるか昔の時代からこの世に存在するものだということでしょう。

ですがクリフォードに『お前たちは何のために、なぜ生きてそこにいるのだ?』と問われて、エドガーは答えに迷います。

フィクション/物語の存在価値は、「神に作られた」と信仰によって認められている人間たちとは、別に見出されなければなりません。
現実的ではない物語は、神ならぬ人間が何のために作ったのか定かではない異端の存在とも言えます。「異端」の物語は神を称える物語でもなければ、王や戦争を記す歴史の物語でもありません。
そういった「異端」の物語は何も生産せず、逃避を生み、社会に寄与しないと思われてきました。漫画やファンタジーが今日のようにいわゆる『社会的な地位』とよばれるものを持つようになったのは、ごく最近のことでしょう。

「異端」の物語を象徴するバンパネラ一族は、存在の否定ではなく、存在価値の否定によって消滅の危機に晒されました。
それに対するエドガーの答えはなんだったのでしょうか?

エドガーは口ごもり、二の句を継げなくなります。
少なくともぼくは、と繰り返します。
少なくともぼくは。
次の言葉はなんでしょうか?
おそらく、メリーベルを守るためにバンパネラになって生きてきた、ということでしょう。
ですが、その言葉はすでに口に出来なくなっていました。
苦しみながらエドガーはその場を立ち去ります。

「異端」によって変えられたエドガーは、自身の手でメリーベルから「成長」というものを奪いました。離れがたく、愛情と寂しさゆえに。そしてともに生きていくために。
妹である彼女は永遠に幼い少女のままで生きなければなりませんでした。彼女を守ることがエドガーの生きる意味だったのです。
物語によって変えられてしまった作者自身を投影したエドガーによって、変えられてしまったメリーベルの中にある、成長できない少女というモチーフ。
ポーの一族という物語の中から、そのモチーフは失われてしまいます。メリーベルには、自身がポーの一族であるということ以外になんの罪もありませんでした。
ただ儚く、か弱く、彼らの永遠の彷徨の物語についていくことが出来なかったのです。
その作者の決断には、美しさと悲劇の物語にみずからの身を投じようとする恐るべき覚悟があるように思えます。

幕だ、すべてが終わった。と呟いたエドガーは最後に気づきます。自身に残されたものを。
そしてアランの屋敷に向かうのです。彼らの答えを求めて。

その答えは作中に描かれています。
そのエドガーの選択がなければポーの一族という物語は描かれなかったでしょうし、40年以上たった今でも語り継がれていないはずです。
だからこそこの漫画のラストに、エドガーの行動に、意味が立ち現れてくるのです。
人が人ではなくなり、愛を得られずに、彷徨い続け、生き続けることに。そこになんの意味があるのか。

「美しさと悲劇の孤独を彷徨う、出会いと別れの物語」
ぼくはポーの一族という物語に対してずっとそんなふうに思っていました。
今回、この宝塚での舞台を見るまでは。

宝塚の舞台のおかげでポーの一族のもつ物語のテーマが、現実に達成される瞬間をぼくは生で見ることができました。そのことに心から感謝しています。

作者によって生み出されたエドガーの語りえなかった、この物語の結末のかたち。
物語はなんのために存在するのか?
語り継がれるために存在するのです。
時をこえて、形をかえて、それでも同じ物語が語られることを熱望されて、いつかの聞き手がいまの語り手になって、また再現されるのです。
それが繰り返されて物語は時をこえてゆく。
これが永遠に続く。あるいは永遠の終りまで。

エドガーたちがその世界に存在しているからこそ、彼らと触れあった人々の物語が萩尾望都という作者の手によって残されるのです。
ポーの一族は去年になってまた新作が発表されました。この物語は終わってはいないのです。
そう表現された漫画が、いっさいを損なわずに進化して舞台という形にかわって四十年の時をこえて再現されました。

この舞台と漫画にぼくが魅了されたように、多くの人々がこの物語を知ることで。もしかしたらぼくや他の誰かが、またエドガーに会える日が来るかもしれません。
それがどんな形になるかはまったく分かりませんが、ぼくはそんな思いでこの文章を書いています。