②ポーの一族について

 第2回 「バンパネラ」は何のために存在するのか?

前回は「バンパネラポーの一族は誰の手によって生み出された存在なのか」という問いで終わりました。

それを考えるために、ポーの一族の物語の骨子を確認してみましょう。
『捨て子』である主人公エドガーは、バンパネラたちに保護されて暮らしていましたが彼らの秘儀を垣間見てしまい、なかば無理やりに彼らの一族にされてしまいます。
一族の長であるキング・ポーの血を与えられたエドガーは、永遠の命による孤独と流転を強いられることになります。

ここでエドガーを萩尾望都という作者に、バンパネラをSFやファンタジーの物語として置き替えてみましょう。作者自身のエッセイでも語っているとおり、彼女は漫画を書くことを禁止され否定される家庭で育てられながら、隠れてずっと漫画を書き続けていたそうです。有名になったあとでもその生業を続けることが、理解されない家族との軋轢になっていました。
エドガーは言うなれば、作者の分身でもありSFやファンタジーなどの物語そのものを表す存在です。
つまり、彼らは当然ながら意識的に作者によって生み出された物語の中の一人として存在するのです。
また、萩尾先生を漫画家の道にいざなったのは数多くの物語を作り出した偉大な先人たちであるとも言えます。
その理由は、エドガーとアランというポーの一族の主人公である二人の名前の並びそのものを見れば明らかです。

物語に話を戻しましょう。

作者の分身や理想でもあるエドガーは、物語の終盤で医師で女好きというきわめて現実的な人間であるクリフォードと対峙します。
そこでエドガーはクリフォードから『消え去れ、悪霊。お前たちは実在しない』と言われます。
エドガーが返す台詞はこうです。
『あなたがたよりずっと長い時間を、実在している』
エドガーは物語の立場を代弁するかのように答えます。物語自体は現実には存在しないが、それは現代よりはるか昔の時代からこの世に存在するものだということでしょう。

ですがクリフォードに『お前たちは何のために、なぜ生きてそこにいるのだ?』と問われて、エドガーは答えに迷います。

フィクション/物語の存在価値は、「神に作られた」と信仰によって認められている人間たちとは、別に見出されなければなりません。
現実的ではない物語は、神ならぬ人間が何のために作ったのか定かではない異端の存在とも言えます。「異端」の物語は神を称える物語でもなければ、王や戦争を記す歴史の物語でもありません。
そういった「異端」の物語は何も生産せず、逃避を生み、社会に寄与しないと思われてきました。漫画やファンタジーが今日のようにいわゆる『社会的な地位』とよばれるものを持つようになったのは、ごく最近のことでしょう。

「異端」の物語を象徴するバンパネラ一族は、存在の否定ではなく、存在価値の否定によって消滅の危機に晒されました。
それに対するエドガーの答えはなんだったのでしょうか?

エドガーは口ごもり、二の句を継げなくなります。
少なくともぼくは、と繰り返します。
少なくともぼくは。
次の言葉はなんでしょうか?
おそらく、メリーベルを守るためにバンパネラになって生きてきた、ということでしょう。
ですが、その言葉はすでに口に出来なくなっていました。
苦しみながらエドガーはその場を立ち去ります。

「異端」によって変えられたエドガーは、自身の手でメリーベルから「成長」というものを奪いました。離れがたく、愛情と寂しさゆえに。そしてともに生きていくために。
妹である彼女は永遠に幼い少女のままで生きなければなりませんでした。彼女を守ることがエドガーの生きる意味だったのです。
物語によって変えられてしまった作者自身を投影したエドガーによって、変えられてしまったメリーベルの中にある、成長できない少女というモチーフ。
ポーの一族という物語の中から、そのモチーフは失われてしまいます。メリーベルには、自身がポーの一族であるということ以外になんの罪もありませんでした。
ただ儚く、か弱く、彼らの永遠の彷徨の物語についていくことが出来なかったのです。
その作者の決断には、美しさと悲劇の物語にみずからの身を投じようとする恐るべき覚悟があるように思えます。

幕だ、すべてが終わった。と呟いたエドガーは最後に気づきます。自身に残されたものを。
そしてアランの屋敷に向かうのです。彼らの答えを求めて。

その答えは作中に描かれています。
そのエドガーの選択がなければポーの一族という物語は描かれなかったでしょうし、40年以上たった今でも語り継がれていないはずです。
だからこそこの漫画のラストに、エドガーの行動に、意味が立ち現れてくるのです。
人が人ではなくなり、愛を得られずに、彷徨い続け、生き続けることに。そこになんの意味があるのか。

「美しさと悲劇の孤独を彷徨う、出会いと別れの物語」
ぼくはポーの一族という物語に対してずっとそんなふうに思っていました。
今回、この宝塚での舞台を見るまでは。

宝塚の舞台のおかげでポーの一族のもつ物語のテーマが、現実に達成される瞬間をぼくは生で見ることができました。そのことに心から感謝しています。

作者によって生み出されたエドガーの語りえなかった、この物語の結末のかたち。
物語はなんのために存在するのか?
語り継がれるために存在するのです。
時をこえて、形をかえて、それでも同じ物語が語られることを熱望されて、いつかの聞き手がいまの語り手になって、また再現されるのです。
それが繰り返されて物語は時をこえてゆく。
これが永遠に続く。あるいは永遠の終りまで。

エドガーたちがその世界に存在しているからこそ、彼らと触れあった人々の物語が萩尾望都という作者の手によって残されるのです。
ポーの一族は去年になってまた新作が発表されました。この物語は終わってはいないのです。
そう表現された漫画が、いっさいを損なわずに進化して舞台という形にかわって四十年の時をこえて再現されました。

この舞台と漫画にぼくが魅了されたように、多くの人々がこの物語を知ることで。もしかしたらぼくや他の誰かが、またエドガーに会える日が来るかもしれません。
それがどんな形になるかはまったく分かりませんが、ぼくはそんな思いでこの文章を書いています。

 

①ポーの一族について

これから、ポーの一族の話をしていきたいと思います。漫画と舞台の両方を見て、新しく感じたことや考えたことが中心になると思います。語りたいことが多くあるので、テーマやジャンル別に何回かに渡って書いてみるつもりです。
どこから読んでも分かるように書くつもりなので、漫画や物語、舞台はもちろん萩尾先生の作品に興味がある方に読んでもらえたら嬉しく思います。

まず第1回は『バンパネラ』について、です。

『我らはこの世ならぬもの
神が造りしものに非ず
生きとし生けるものすべて
命果てれば屍となる
されど我らは
塵となりて風に舞う』

これはポーの一族・宝塚舞台での歌の一節です。
ポーツネル男爵の妻になるシーラを一族に迎える儀式の際に歌われました。
ポーの一族大老であるキング・ポーの主題歌でもあります。我ら、とはキング・ポーを長とするポーの一族のことです。
この歌詞(原作の漫画にもある台詞)について考えてみたいと思います。

『神が造りしもの』
古くからキリスト教には、人間は神さまに作られたものだという共通の認識があります。
ポーの一族の舞台は様々な時代に渡るヨーロッパの土地ですが、そこでは神さまに造られないで存在するものは、この世ならぬものは、怪物や異端者、はぐれ者として見られてしまいます。

では『神さまに造られていないもの』というのはどういう意味なのでしょうか?
その言葉の意味は2つあると思います。
1つはキリスト教を信じていないもの、神さまの恩寵の外にあるものを意味します。時代によっては迫害の対象になってきました。
物語上でポーツネル男爵が『異端』という言葉で言及しているように、バンパネラという呼称にはこの意味が多分に含まれています。
もう1つの意味は、神さまが造ったのではなく『人間の手によって造られたもの』ということです。
自然や神話以外の人工物、キリスト教への信仰をもたない『物語』などを指すでしょう。この『物語』キリスト教以前の土着信仰や各地の民話と密接に結び付いています。

その2つの意味の重なる存在、それがバンパネラポーの一族の正体ではないかと思います。
注目は後者です。
連作であるポーの一族は、作者の類い稀れなストーリーテリングのセンスによって『時をこえて彷徨うバンパネラ伝説』という語り口が、人が作るフィクション/『物語ることについての物語』という形に繋がるように表現されているのです。

神から見放された異端者たち一族を、神ならぬ人の手によって生み出された物語の存在する意味になぞらえるようにして語られていることが、ポーの一族の数多くある魅力のひとつだと思います。

ではバンパネラポーの一族は誰の手によって生み出された存在なのか。
エドガーは誰の手によって生み出された存在なのか。

次回はその辺りを考えてみたいと思います。

『Road to Zepp 』 草ケ谷 遥海(アルバム)


友人に誘われて草ケ谷遥海さんのワンマンライブに行ってきた。彼女はテレビの新人発掘などの番組で何度も入賞したことのある、若手の女性歌手だ。
お台場のZeppダイバーシティの会場はほぼ満員で、19時半の開演間際に着くと二階の関係者席に通された。

友人とぼくは、むかし一緒に学生バンドを組んでいた仲だ。
彼は進学後も音楽学校に通い『ゴーショーグン』や『モスピーダ』などで有名な羽岡先生に学んで某事務所からいくつかのCDを出していた。その関係で今回のライブに招待されて、ぼくはそのご相伴に預かったのだ。
久々に友人たちと飲みに行く前の楽しいイベント、というつもりで参加したのだが。

彼女の開口一番、エネルギッシュでパワフルなその歌声にぼくはがつんとやられた。 かと思えば、ジャズでソウルフルな艶っぽい歌声に頭がくらくらし、リズミカルなベースの振動がぼくの体を包んで揺らした。
まるで原始的な祝祭のようだった。
祝詞をあげてかみさまを降ろすかのような心地のよい絶叫と歌唱がつづく。一体どこからそんな声がでてるんだろうと驚くべき豊かな響きが歌になり、会場の空間をすみずみまで満たしていく。大音量なのに耳許で優しく歌われているような声に、全身が包まれる不思議な体験をした。
人間の喉はしゃべるよりもさきに歌うために存在した、という話を彼女を見ていて本気で信じたくなった。

プロより上手い学生、という期待の新人が今日からプロになるという。そこまでの道のりは平坦ではなかったのだろう。
情感が溢れて涙をみせた曲間のMCに、魅力的で快活な印象を受けた。

今日は生で間近で聞くほんもののパワフルな歌手のライブは、こんなにも素晴らしい体験なのかと教えてもらった気がする。
帰り際にCDまで頂いた。友人に感謝だ。
そのお礼になにもお返し出来ないなら、せめて応援してみたいと初めて思える人に出会ったような気がしている。またライブがあるなら行ってみたい。今後に注目しよう。

 ・カバー
レイニー・ブルー
listen(ビヨンセ)
I Love you(H.U.B、クリス・ハート)

・オリジナル
DIAMOND
誓い
Dance Dance Dance!

『I Love you』 では二胡の奏者にゲストの方(kiRiko)が来ていたが、歌声と二胡が相乗して素晴らしい曲になっていた。
この方の弾く『菊花台』(作曲:周杰倫)という曲も実にいいのでオススメ。

マンチェスター・バイ・ザ・シー(2017)

過ちをおかした。
そのために死ぬことも出来ない。
苦しくてそのことを乗り越えられない。
だからここにはいられない。

自分が苦しいということを、人に言える。
それすら自分に許してこなかったのだろう。苦しいと思うことすら許される訳がないと思っていたのだろう。
たったひとりで、そう思い込んでいた人間が主人公の映画だった。
自責の念が拭いきれないことは、誰しもあるはずだ。そういう人にぜひ見てほしい映画だと思う。

苦しみを告白すること。
告白する相手がそこにいること。
相手が生きてそばにいること。
ただそれだけがそこにはあって、でもそれが理由にも救いにもならない。それでもいい。

だがそれでも生きる、と言ってしまうのはこの映画からあまりにも離れて、他人事になってしまう。
『ただ傷つきながらそこにいる』
そういう人のそばに佇んで、見守る映画だからだ。
この映画には奇跡はない。死者との邂逅もない。ただ思い出すだけだ。ただ夢を見るだけだ。

夢の中で父親が娘たちと会話するシーンで、ぼくは安堵した。表面の言葉に息が詰まるが、父親が娘たちにそう言えたことがこの映画を形作っている。
監督はやさしい人だろう。苦しみや悲しみに、ただそのそばに佇むようにしてそこにいる人もいると知っているから。許しや救いを欲することが出来ないで、立ちすくんでいる人もいると知っているから。
そういう人にもほんのすこし慈悲と憐れみがもたらされてもいいはずだ。

そうであってよくない理由はなにひとつない。
ちいさな希望がもたらされてもいい。
たとえそれが叶わなくてもいいのだ。
それが悪い理由はどこにもない。この映画を見てそう思った。

エンディングはマンチェスターの冬の景色を見せる。それが終わるとともに映画が終わる。
冬が終わる。その美しい終わり方を見て満足しているぼくがいる。
銃や船やエンジン、家具や部屋に明示されたものの変遷を語ろうかとも最初は思った。だがそれはこの映画には似合わないだろうと、思いとどまって口をつぐむことにする。
この映画は、語れるはずだったさまざまなモチーフに口をつぐんで、ただ見守る優しさを見せた。そのことに敬意をもってぼくも少しでも倣いたいと思う。

シャン・レサン (新馬場)

長い会議と研修のあとに、同僚と軽く一杯という流れになり気になっていたお店に飲みに出かけた。
ガラス戸と木造りの店構えがよくて、ランチはなく夜だけオープンするワインバーのようだった。
八寸のようなつきだしの盛り合わせ、焼きソーセージと、ピザ。ビールを2杯。
ピザは重くない。アルザス地方の郷土ピザ(!)だそうで、長方形に八枚切りの生地は薄くてパリパリの食感だった。具は少なめで、玉ねぎの薄切りと細切りのベーコンが散らしてある。
シンプルなのにそのピザ(フラムクーヘンという)がすごく美味しかったのは、チーズが具材のなかだちをしているからだった。玉ねぎの甘さとベーコンの塩気がミルクの香りのする柔らかいチーズによって、ひとまとまりになっている。繊細なバランスがとれているのに、気取らない料理は好きだ。

このチーズはフロマージュにヨーグルトを混ぜたものだそうで、マスターのオリジナルなのか郷土チーズなのかは分からなかった。ただ、さっぱりとして軽くてうまい。
他にもりんごやバナナを具材にしたフラムクーヘンもあるらしく、味が気になる。
再訪する理由が出来た。

ホルモン北野 (白楽)

白楽の駅から15分ほど歩いて、先輩と3人でホルモン北野に行ってきた。

お通しのポテトサラダはじゃがいもの歯応えがほどよく残っていて、ビールによくあう。
ユッケは玉ねぎのスライスの小山に生のハツが並べられて、その頂上に卵の黄身が鎮座している。甘い醤油だれがかかっていて絶品だった。玉ねぎがきちんとさらされているのか、生なのにまったくえぐみがない。黄身も濃厚でとろりとしていて、このお店は副菜や素材に手を抜いてないと分かって嬉しくなる。
牛テール煮のおろしぽん酢和え。ゆず胡椒と大根おろしが油っこさを中和してさっぱりした食べ応えだった。
盛り合わせはシロ、マルチョウをたれで。ノドブエ、ノドガシラ、牛ホホ、ハチノス、オッパイ、心のこりを塩で。
さらにノドガシラと牛ハツを単品で頼む。
牛ハツはユッケでも食べたけれど、塩で焼くと別次元のうまさだった。
刺身で食べたものより、焼いて食べたものの方が美味しかったホルモンは初めてだ。
ハツの身がぷつん、と噛みきれてその歯応えだけで新鮮さがわかる。
驚いたのはひとくち目だけでなく、その歯応えがぷつん、ぷつん、とひと切れの肉の端っこまで味わえる。噛めば噛むほど肉汁と香りがあふれてきて幸せになれる。
ひと切れの肉の中心と外縁が同じ弾力の柔らかさだなんて信じられなかった。
筋もなく、堅さもなく、臭みもない。
焼いた肉の外側は硬いものだという、当たり前だと思っていた食感の前提がひっくり返された。
いい肉が新鮮で、磨かれた技術によって成形されている。値段も良心的すぎる。
また通いたい店ができた。

マルドゥック・アノニマス3 (ハヤカワ文庫)

少女は言う。「あなたは優しい。沢山の人があなたに助けられたし、わたしもそうだった」手のひらの上の小さな金色のパートナーに向けて。

金色のネズミが答える。「それが『有用性』ってやつだ。俺が廃棄処分されそうになったら、ぜひその言葉を法廷で証言してくれ」あくまでおどけた調子で。

少女は答える。「絶対に言う。あなたがどんなに必要とされている人か、私がみんなに教えてあげる」

 

少女と別れた金色のネズミは、ひとり自責の念にかられる。助けた人間のことよりも、助けられなかった人間のことを考える。

 

有用性などなくても人は生きていていいのだ。

それでも価値はあるのだ、という価値観を守るための戦いに身を投じることだけが自らが存在していい価値を生む。作られた存在である金色のネズミは、自分の存在価値をそう考える。

生まれたものではなく、作られたものだからだ。作られたものには意味があり、価値がある、としなければ生きられないからだ。

有用性。それを課されて、証明し続ける者たちの物語。

ぼくたちは彼らによって、彼らという物語によって、守られているのだ。

だからこれは、ぼくにとって絶対に捨てることのできない、必要な物語だ。